口笛を鳴らした。弟は大声で軍歌を唄った。歌津子は空を仰いだり彼らの歌に耳をすまして微笑《ほほえ》んだり、今買った京人形を愛《いとお》しんだりして歩いていた。
 しばらくゆくと、彼女がふいと兄のからだに抱きついて彼を引き戻した。闇《くら》がりから大きな馬の顔が現れた。
「ちっとも見えないんだ。」と兄が言った。彼女はしっかりと兄の手を握って息を喘《はず》ませた。
 それを見ると弟はきゅうに口を緘《つぐ》んで、彼女を放っておいてどんどん先へいった。弟の胸の中に不満と淋しさが膨《ふく》れ上っていたのだ。
 その夜、床にはいってから、弟は夜着の中でいつまでも眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85、11上−10]《みは》っていた。そして彼は、隣りに眠っている兄の穏かな寝息きを聞くと、こっそり起き上って、枕もとの兄の黒眼鏡を持って縁側に出た。そして、廁《かわや》の側の雨戸を開けて、星の輝いてる空に向って、力限り抛《ほう》り上げた。それから床に戻って、いつか教会で聞いた神様の名を幾度も口の中で繰り返えした。いつの間にか涙が眼にいっぱいに溢れた。そうして瞼《まぶた》を合せると、自分が歌津子と肩を組みながら、兄が馬に喰われているのを眺めている夢を見た。
 中学校へ通うようになると兄はいっそう無口になった。兄の穿《は》く靴を弟は嘆美に似た心持ちで眺めた。それから、兄がリーダの復習をしているのを傍で聞いていると、きゅうに、兄が、どんなに踏み台をしても届かないようなところへ昇天してしまったような気がするのだった。
 ある日、弟は兄の友人からこんなことを聞いた。その日、兄の組は体操の時間に高い梁木の上を渡らされた。兄は、教師の止めるのを聞かないで、皆と同じように渡ろうとした。そうして、半ばまで来ると、不意によろめいて、くくり猿のように梁木にしがみついた。いったい、片方の眼を失った彼が、直線の上を真直《まっすぐ》に歩こうとするのがむりなのだ。兄はそこから吊さがっている長い棒を伝っていったん下へ降りてきた。教師は苦笑しながら、それみろと言った。
 皆が渡りきると、兄はも一度片方の梯子《はしご》を登り初めた。教師は赧《あか》くなって兄を叱った。兄は微笑しながら、だいじょうぶですと言った。そして登っていった。
 三分の一ほど行くと、彼はまた重心を失って、危く腹這《はらば》いになった。下から仰ぎ見
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