旅日記
東海道線
二葉亭四迷

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)国府津《こふず》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]忙と

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ポツ/\
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 社命を畏こまつて雲の彼方の露都を志し六月十二日雨持つ空の何となく湿つぽい夕弱妻幼児親戚の誰彼、さては新知旧識のなつかしき人々に見送られ新橋より大阪行の客となる。二十年来の知己横山天涯君統計好きの乾びた頭にも露の情けの湿はあつて同車して国府津《こふず》まで見送られお蔭で退屈を免れたのは嬉しかつたが、国府津からは全くの一人となつてとうとう雨さへポツ/\降つて来た。隣席に一露人の観光の為来朝して今浦塩へ帰るといふのが有つたから、それから此人と話し/\行く。狙撃聯隊の中尉とかとて名をチョールヌイ君といふさう。チョールヌイとは黒いの義、随分異つた名もあればあるものだ。山北で意地汚なしの本性を顕して給仕に命じて例の香魚鮨を買はんとすると、チョールヌイ君も私にもといふ。君、鮨といふものは醋につけた魚を背負つた米の飯だよといふと、チョールヌイ君おゝといつて驚いて出した手を引込ます。予の分を裾分けしやうとしたが、先生首を掉つてどうしても食はなかつた。
 やがて更行くまゝにそこらに鼾声グウ/\と起る。首をグタリと曲げダラシなく羽目に凭れた寝姿も余りみつとも好いものでない。況や涎を垂らす日になると、目も当てられないが、憎むべきは二人詰のソファー式ベンチを一人で占領して肱掛を枕に心地よさゝうに眠入りながら、時々首を挙げて寐惚声に首が痛くて眠られぬといふ奴等だ。
 チョールヌイ君寐むさうな欠をして曰く日本は厭な処だと、余驚いて振向くと、透かさず汽車で寝られんと言足す。余いふ四円お出しなさい、いつも楽に寝られると、先生一寸首を縮め黙つて両手を開く。
 負惜しみをいふやうなものゝ、余も実は同感だつた。何しろ出発前のドサクサに三晩といふもの碌に寝なかつたから、少々寐むたい。頻りに生欠びが出る。チョールヌイ君はいつか黙つて首を垂れて大柄が切りに余にもたれ掛つて来る。勢ひ此方からも凭れ気味にせぬと、釣合が取れぬ。之を日露もたれ合といふと、心の中で笑ひながらしばらく黙々してゐるとふと、今日新橋で分れた人々の面が目前にちらつく。末の健坊が誰やらに抱かれて吃驚して四下を視廻してゐる面、福田女史に何か言はれてはにかむだやうな富坊の面が見える、大きな三山主筆の面が見える、酒太りの風浪兄の面も見える。細長い松山兄の面も見える。三山君は少し空嘯いてフヽと笑ふ癖がある、風浪君のは下唇を裏まで見せてムッと口を結び六かしい面をするのが癖だ、松山君の言葉には抑揚がないなぞと他愛のない事を思ひながら他愛なくなる。
 名古屋で目が覚めて米原でチョールヌイ君に別れ大阪で下車して宿につくなり、服も脱がずに其儘グッスリ寐込むだ。

    其二

  敦賀行
 一時間ばかりして眼を覚ますと、顔を洗ふ、飯を食ふ、腹が出来るや否や長田君を親友ごかしに放たらかして置いて急で社へ出た。

    其三

 大阪本杜で打合せを済まして大阪へ着いた日に又大阪を立つて後藤男を迎へる為に敦賀《つるが》へ行つた。敦賀にはなつかしき人が数名居る、皆謂ふ所の心友だ。
 久振りだとかいつて此人々にさる旗亭へ招かれて大に飲むだ。此澆季の世には珍らしい厚い志が嬉しくてツイ飲過して泥の如く酔ひ車上に扶け載せられて旅宿に帰り前後不覚に眠入つた。
 間もなく宿の嬶に驚かされて跳起※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]忙として車を埠頭に飛ばし、小蒸気に飛乗つて鳳山丸に乗り付けデッキへ上つて見ると、サルンと覚しき室の前に、ゴタ/\と集つた人影が見える。或は背広、フロック、袴羽織思ひ/\の服装で、誰が誰やら一寸は薩張り分らなかつたが、能く見ると其中に霜降の背広に黒の山高帽を冠り、鼻眼鏡をかけた英姿颯爽の一偉丈夫がある。出迎への人々交る/\其前へ出て敬しく叩頭するので、正面の僕にも直ぐ其と知れた。
 で、人の後に従いて前の人の退くを待つて其人の前に出て名刺を出してお辞儀をすると、確か竜居秘書だつたと思ふ、側から二葉亭四迷君ですと紹介せられる、男爵はおゝさうかと跋を合はされた、二葉亭四迷が何だか御存じあるべき筈はなし、恐らく一寸戸惑ひをされたらう、落語家といふ面相でもなし、釈子でもなさゝうだし、はゝあ、分つた、矢張伊藤某の亜流で壮士上りの浪花節語りだな――位が落だろう、ヘン好い面の皮だ。
 上陸せられた後の模様は当時の電報に尽きてゐるから、爰
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