らだらして、黙読するには差支えないが、声を出して読むと頗る単調《モノトナス》だ。啻《ただ》に抑揚などが明らかでないのみか、元来読み方が出来ていないのだから、声を出して読むには不適当である。
 けれども、苟《いやし》くも外国文を翻訳しようとするからには、必ずやその文調をも移さねばならぬと、これが自分が翻訳をするについて、先ず形の上の標準とした一つであった。
 そこで、コンマやピリオドの切り方などを研究すると、早速目に着いたのは、句を重ねて同じことを云うことである。一例を挙ぐれば、マコーレーの文章などによくある in spite of の如きはそれだ。意味から云えば、二つとか、三つとか、もしくば四つとかで充分であるものを、音調の関係からもう一つ云い添えるということがある。併し意味は既に云い尽してあるし、もとより意味の違ったことを書く訳には行かぬから仕方なしに重複した余計のことを云う。
 これは語《ことば》の上にもあることで、日本語の「やたらむしょう」などはその一例である、或は「強く厳しく彼を責めた」とか、或は、「優しく角立たぬように説得した」とか云う類は、屡々《しばしば》欧文に見る同一例で
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