余が翻訳の標準
二葉亭四迷
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)如何様《いかよう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)丁度|桜花《さくら》が
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)佶倔※[#「敖/耳」、第4水準2−85−13]牙《きっくつごうが》
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翻訳は如何様《いかよう》にすべきものか、其の標準は人に依って、各《おのおの》異ろうから、もとより一概に云うことは出来ぬ。されば、自分は、自分が従来やって来た方法《しかた》について述べることとする。
一体、欧文は唯だ読むと何でもないが、よく味うて見ると、自ら一種の音調があって、声を出して読むとよく抑揚が整うている。即ち音楽的《ミュージカル》である。だから、人が読むのを聞いていても中々に面白い。実際文章の意味は、黙読した方がよく分るけれど、自分の覚束ない知識で充分に分らぬ所も、声を出して読むと面白く感ぜられる。これは確かに欧文の一特質である。
処が、日本の文章にはこの調子がない、一体にだらだらして、黙読するには差支えないが、声を出して読むと頗る単調《モノトナス》だ。啻《ただ》に抑揚などが明らかでないのみか、元来読み方が出来ていないのだから、声を出して読むには不適当である。
けれども、苟《いやし》くも外国文を翻訳しようとするからには、必ずやその文調をも移さねばならぬと、これが自分が翻訳をするについて、先ず形の上の標準とした一つであった。
そこで、コンマやピリオドの切り方などを研究すると、早速目に着いたのは、句を重ねて同じことを云うことである。一例を挙ぐれば、マコーレーの文章などによくある in spite of の如きはそれだ。意味から云えば、二つとか、三つとか、もしくば四つとかで充分であるものを、音調の関係からもう一つ云い添えるということがある。併し意味は既に云い尽してあるし、もとより意味の違ったことを書く訳には行かぬから仕方なしに重複した余計のことを云う。
これは語《ことば》の上にもあることで、日本語の「やたらむしょう」などはその一例である、或は「強く厳しく彼を責めた」とか、或は、「優しく角立たぬように説得した」とか云う類は、屡々《しばしば》欧文に見る同一例である。これらは凡て文章の意味を明らかにする以外、音調の関係からして、副詞を入れたいから入れたり、二つで充分に足りている形容詞をも、一つ加えて三つとしたりするのである。コンマの切り方なども、単に意味の上から切るばかりでなく、文調の関係から切る場合が少くない。
されば、外国文を翻訳する場合に、意味ばかりを考えて、これに重きを置くと原文をこわす虞《おそれ》がある。須《すべか》らく原文の音調を呑み込んで、それを移すようにせねばならぬと、こう自分は信じたので、コンマ、ピリオドの一つをも濫《みだ》りに棄てず、原文にコンマが三つ、ピリオドが一つあれば、訳文にも亦ピリオドが一つ、コンマが三つという風にして、原文の調子を移そうとした。殊に翻訳を為始めた頃は、語数も原文と同じくし、形をも崩すことなく、偏《ひと》えに原文の音調を移すのを目的として、形の上に大変苦労したのだが、さて実際はなかなか思うように行かぬ、中にはどうしても自分の標準に合わすことの出来ぬものもあった。で、自分は自分の標準に依って訳する丈けの手腕《うで》がないものと諦らめても見たが、併しそれは決して本意ではなかったので、其の後《のち》とても長く形の上には、此の方針を取っておった。
処で、出来上った結果はどうか、自分の訳文を取って見ると、いや実に読みづらい、佶倔※[#「敖/耳」、第4水準2−85−13]牙《きっくつごうが》だ、ぎくしゃくして如何にとも出来栄えが悪い。従って世間の評判も悪い、偶々《たまたま》賞美して呉れた者もあったけれど、おしなべて非難の声が多かった。併し、私が苦心をした結果、出来損ったという心持を呑み込んで、此処が失敗していると指摘した者はなく、また、此処は何《ど》の位まで成功したと見て呉れた者もなかった。だから、誉められても標準に無交渉なので嬉しくもなければ、譏《そし》られても見当違いだから、何の啓発される所もなかった。いわば、自分で独り角力を取っていたので、実際毀誉褒貶以外に超然として、唯だ或る点に目を着けて苦労をしていたのである。というのは、文学に対する尊敬の念が強かったので、例えばツルゲーネフが其の作をする時の心持は、非常に神聖なものであるから、これを翻訳するにも同様に神聖でなければならぬ、就ては、一字一句と雖《いえども》、大切にせなければならぬとように信じたのである。
併し乍ら、元来文章の形
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