は自ら其の人の詩想に依って異なるので、ツルゲーネフにはツルゲーネフの文体があり、トルストイにはトルストイの文体がある。其の他凡そ一家をなせる者には各独特の文体がある。この事は日本でも支那でも同じことで、文体は其の人の詩想と密着の関係を有し、文調は各自に異っている。従ってこれを翻訳するに方っても、或る一種の文体を以て何人にでも当て嵌める訳には行かぬ。ツルゲーネフはツルゲーネフ、ゴルキーはゴルキーと、各別にその詩想を会得して、厳しく云えば、行住座臥、心身を原作者の儘にして、忠実に其の詩想を移す位でなければならぬ。是れ実に翻訳における根本的必要条件である。
 今、実例をツルゲーネフに取ってこれを云えば、彼の詩想は秋や冬の相ではない、春の相である、春も初春《しょしゅん》でもなければ中春でもない、晩春の相である、丁度|桜花《さくら》が爛※[#「火+曼」、第4水準2−80−1]と咲き乱れて、稍々《やや》散《ち》り初《そ》めようという所だ、遠く霞んだ中空《なかぞら》に、美しくおぼろおぼろとした春の月が照っている晩を、両側に桜の植えられた細い長い路を辿るような趣がある。約言すれば、艶麗の中《うち》にどっか寂しい所のあるのが、ツルゲーネフの詩想である。そして、其の当然の結果として、彼の小説には全体に其の気が行き渡っているのだから、これを翻訳するには其の心持を失わないように、常に其の人になって書いて行かぬと、往々にして文調にそぐわなくなる。此の際に在ては、徒らにコンマやピリオド、又は其の他の形にばかり拘泥していてはいけない、先ず根本たる詩想をよく呑み込んで、然る後、詩形を崩さずに翻訳するようにせなければならぬ。
 実際自分がツルゲーネフを翻訳する時は、力めて其の詩想を忘れず、真に自分自身其の詩想に同化してやる心算《つもり》であったのだが、どうも旨く成功しなかった。成功しなかったとは云え、標準は矢張り其処にあったのである。但《た》だ、自分が其の間に種々《いろいろ》と考えて見ると、一体、自分の立てた標準に法って翻訳することは、必ずしも出来ぬと断言はされぬかも知れぬが、少くとも自分に取っては六ヶ敷《むつかし》いやり方であると思った。何故というに、第一自分には日本の文章がよく書けない、日本の文章よりはロシアの文章の方がよく分るような気がする位で、即ち原文を味い得る力はあるが、これをリプロヂュースする力が伴うておらないのだ。
 で、外に翻訳の方法はないものかと種々《いろいろ》研究して見ると、ジュコーフスキー一流のやり方が面白いと思われた。ジュコーフスキーはロシアの詩人であるが、寧ろ翻訳家として名を成している。バイロンを多く訳しているが、それが妙に巧《うま》い。尤も当時のロシアは、其の社会状態が小バイロンを盛んに生んだ時代で、殊にジュコーフスキーの如きは、鉄中錚々たるものであったから、求めずしてバイロンの詩想と合致するを得て、大に成功したのかも知れぬが、兎に角其の訳文は立派なロシア文となっている。
 けれども、これをバイロンの原詩と比べて見ると、其の云い方が大変違う、原文の仄起《そっき》を平起《ひょうき》としたり、平起を仄起としたり、原文の韻のあるのを無韻にしたり、或は原文にない形容詞や副詞を附けて、勝手に剪裁《せんさい》している。即ち多くは原文を全く崩して、自分勝手の詩形とし、唯だ意味だけを訳している。処が其の両者を読み比べて見るとどうであろう。英文は元来自分には少しおかったるい方だから、余り大口を利く訳には行かぬが、兎に角原詩よりも訳の方が、趣味も詩想もよく分る、原文では十遍読んでも分らぬのが、訳の方では一度で種々の美所が分って来る、しかも其のイムプレッションを考えて見ると、如何にもバイロン的だ。即ちこれを要するに、覚束ない英語でバイロンを味うよりは、ジュコーフスキーの訳を読む方が労少くして得る所が多いのである。
 其処で自分は考えた、翻訳はこうせねば成功せまい、自分のやり方では、形に拘泥するの結果、筆力が形に縛られるから、読みづらく窮屈になる。これは宜しくジュコーフスキーの如く、形は全く別にして、唯だ原作に含まれたる詩想を発揮する方がよい。とこうは思ったものの、さて自分は臆病だ、そんならと云うてこれを決行することが出来なかった。何故かと云うに、ジュコーフスキー流にやるには、自分に充分の筆力があって、よしや原詩を崩しても、その詩想に新詩形を附することが出来なくてはならぬのだが、自分には、この筆力が覚束ないと思われたからだ。従来やり来った翻訳法で見ると、よし成功はしない乍らも、形は原文に捉《つかま》っているのだから、非常にやり損うことがない。けれども、ジュコーフスキー流にやると、成功すれば光彩燦然たる者であるが、もし失敗したが最後、これほど見じめなものはな
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