れていたのだったかも知れぬ。
兎に角祖母は此通り気難かし家であったが、その気難かし家の、死んだ後迄《あとまで》噂に残る程の祖母が、如何《どう》いうものだか、私に掛ると、から意久地がなかった。
四
何で祖母が私に掛ると、意久地が無くなるのだか、其は私には分らなかった。が、兎に角意久地の無くなるのは事実で、評判の気難かし家が、如何《どう》にでも私の思う様になって了う。
まず何か欲しい物がある。それも無い物ねだりで、有る結構な干菓子は厭で、無い一文菓子が欲しいなどと言出して、母に強求《ねだ》るが、許されない。祖母に強求《ねだ》る、一寸《ちょっと》渋る、首玉《くびったま》へ噛《かじ》り付《つ》いて、ようようと二三度鼻声で甘垂《あまた》れる、と、もう祖母は海鼠《なまこ》の様になって、お由《よし》――母の名だ――彼様《あんな》に言うもんだから、買って来てお遣りよ、という。祖母の声掛りだから、母も不承々々|起《た》って、雨降《あめふり》でも私の口のお使に番傘|傾《かた》げて出懸けようとする。斯うなると、流石《さすが》の父も最う笑ってばかりは居られなくなって、小言をいう。私が泣く、祖母の機嫌が悪い。
「此様《こんな》小さい者を其様《そんな》に苛《いじ》めて育てて、若しか俊坊《としぼう》の様な事にでもなったら、如何《どう》おしだ? 可哀《かわい》そうじゃないか。」
というのが口切で、ボツリボツリと始める。俊坊というのは私の兄で、私も虚弱だったが、矢張《やっぱり》虚弱で、六ツの時|偸《と》られたのだそうだ。それも急性|胃加答児《いカタル》で偸《と》られたのだと云うから、事に寄ると祖母が可愛がりごかしに口を慎ませなかった祟《たたり》かも知れぬ。併し虚弱な児《こ》は大食させ付ると達者になると言われて、然うかなと思う程の父だから、祖母の矛盾には気が附かない。矢張《やっぱり》有触れた然う我儘をさせ付けては位《ぐらい》の所で切脱《きりぬ》けようとする。祖母も其は然う思わぬでもないから、内々《ないない》自分が無理だと思うだけに激する、言葉が荒くなる。もう此上|憤《おこ》らせると、又三日も物を言わなかった挙句、ぷいと家《うち》を出て在《ざい》の親類へ行った切《きり》帰らぬという騒も起りかねまじい景色なので、父は黙って了う。母も黙って出て行く。と、もう廿分も経《た》つと、私が両手に豆捩《まめねじ》を持って雀躍《こおどり》して喜ぶ顔を、祖母が眺めてほくほくする事になって了う。
斯うして私の小さいけれど際限の無い慾が、毎《いつ》も祖母を透《とお》して遂げられる。それは子供心にも薄々|了解《のみこめ》るから、自然家内中で私の一番|好《すき》なのは祖母で、お祖母《ばあ》さんお祖母さんと跡を慕う。何となく祖母を味方のように思っているから、祖母が内に居る時は、私は散々我儘を言って、悪たれて、仕度三昧《したいざんまい》を仕散らすが、留守だと、萎靡《いじけ》るのではないが、余程《よっぽど》温順《おとな》しくなる。
其癖《そのくせ》私は祖母を小馬鹿にしていた。何となく奥底が見透《みすか》されるから、祖母が何と言ったって、些《ちッ》とも可怕《こわ》くない。
それを又勝気の祖母が何とも思っていない。反《かえっ》て馬鹿にされるのが嬉しいように、人が来ると、其話をして、憎い奴でございますと言って、ほくほくしている。
両親も其は同じ事で、散々私に悩まされながら、矢張《やっぱり》何とも思っていない。唯影でお祖母《ばあ》さんにも困ると、お祖母《ばあ》さんの愚痴を零《こぼ》すばかり。
私は何方《どッち》へ廻っても、矢張《やッぱり》好《い》い児《こ》だ。
五
親馬鹿と一口に言うけれど、親の馬鹿程有難い物はない。祖母は勿論、両親とても決して馬鹿ではなかったが、その馬鹿でなかった人達が、私の為には馬鹿になって呉れた。勿体ないと言わずには居られない。
私に何の取得がある? 親が身の油を絞って獲た金を、私の教育に惜気《おしげ》もなく掛けて呉れたのは、私を天晴《あッぱ》れ一人前の男に仕立てたいが為であったろうけれど、私は今|眇《びょう》たる腰弁当で、浮世の片影《かたかげ》に潜んでいる。私が生きていたとて、世に寸益もなければ、死んだとて、妻子の外に損を受ける者もない。世間から見れば有っても無くても好《い》い余計な人間だ。財産なり、学問なり、技能なり、何か人より余計に持っている人は、其余計に持っている物を挟《さしはさ》んで、傲然として空嘯《そらうそぶ》いていても、人は皆其|足下《そっか》に平伏する。私のように何も無い者は、生活に疲れて路傍《みちばた》に倒れて居ても、誰一人《たれひとり》振向いて見ても呉れない。皆|素通《すどおり》して※[#「勹/夕」、第3水準1−14−76]々《さッさ》と行って了う。偶《たまたま》立止る者が有るかと思えば、熟《つらつ》ら視て、金持なら、うう、貧乏人だと云う、学者なら、うう、無学な奴だと云う、詩人なら、うう、俗物だと云う、而《そう》して※[#「勹/夕」、第3水準1−14−76]々《さッさ》と行って了う。平生《へいぜい》尤も親しらしい面《かお》をして親友とか何とか云っている人達でも、斯うなると寄って集《たか》って、手《て》ン手《で》ンに腹《はら》散々《さんざ》私の欠点を算え立てて、それで君は斯うなったんだ、自業自得だ、諦め玉え々々と三度|回向《えこう》して、彼方《あちら》向いて※[#「勹/夕」、第3水準1−14−76]々《さっさ》と行って了う。私は斯ういう価値の無い平凡な人間だ。それを二つとない宝のように、人に後指を差されて迄も愛して呉れたのは、生れて以来|今日迄《こんにちまで》何万人となく人に出会ったけれど、其中《そのうち》で唯祖母と父母あるばかりだ。偉い人は之を動物的の愛だとか言って擯斥《けな》されるけれど、平凡な私の身に取っては是程有難い事はない。
若し私の親達に所謂《いわゆる》教育が有ったら、斯うはなかったろう。必ず、動物的の愛なんぞは何処かの隅に窃《そっ》と蔵《しま》って置き、例の霊性の愛とかいうものを担《かつ》ぎ出《だし》て来て、薄気味悪い上眼を遣って、天から振垂《ぶらさが》った曖昧《あやふや》な理想の玉を睨《なが》めながら、親の権威を笠に被《き》ぬ面《かお》をして笠に被《き》て、其処ン処は体裁よく私を或型へ推込《おしこ》もうと企らむだろう。私は子供の天性の儘に、そんなふやけた人間が、古本《ふるぼん》なんぞと首引《くびッぴき》して、道楽半分に拵《こしら》えた、其癖|無暗《むやみ》に窮屈な型なんぞへ入る事を拒んで、隙を見て逃出そうとする。どッこいと取捉《とッつら》まえて厭がる者を無理無体に、シャモを鶏籠《とりかご》へ推込むように推込む。私は型の中で出ようと藻掻《もが》く。知らん面《かお》している。泣いて、喚《わめ》いて、引掻いて出ようとする。知らん面《かお》している。欺して出ようとする。其手に乗らない。百計尽きて、仕様がないと観念して、性を矯《た》め、情を矯《た》め、生《いき》ながら木偶《でく》の様な生気のない人間になって了えば、親達は始めて満足して、漸く善良な傾向が見えて来たと曰う。世間の所謂《いわゆる》家庭教育というものは皆是ではないか。私は幸いにして親達が無教育無理想であったばかりに、型に推込まれる憂目《うきめ》を免《のが》れて、野育ちに育った。野育ちだから、生来具有の百の欠点を臆面もなく暴《さら》け出して、所謂《いわゆる》教育ある人達を顰蹙《ひんしゅく》せしめたけれど、其代り子供の時分は、今の様に矯飾《きょうしょく》はしなかった。皆《みんな》無教育な親達のお蔭だ。難有《ありがた》い事だと思う。真《しん》に難有《ありがた》い事だと思う。
しかし内拡《うちひろ》がりの外窄《そとすぼ》まりと昔から能《よ》く俗人が云う。哲人の深遠な道理よりも、詩人の徹底した見識よりも、平凡な私共の耳には此方が入《い》り易い。不思議な事には、無理想の俗人の言う事は皆活きて聞える。
私が矢張《やッぱり》其|内拡《うちひろが》りの外窄《そとすぼ》まりであった。
六
内ン中の鮑《あわび》ッ貝、外へ出りゃ蜆《しじみ》ッ貝、と友達に囃《はや》されて、私は悔しがって能《よ》く泣いたッけが、併し全く其通りであった。
如何《どう》いうものだか、内でお祖母《ばあ》さんが舐《なめ》るようにして可愛がって呉れるが、一向嬉しくない。反《かえっ》て蒼蠅《うるさ》くなって、出るなと制《と》める袖の下を潜って外へ駈出す。
しかし一歩|門外《もんそと》へ出れば、最う浮世の荒い風が吹く。子供の時分の其は、何処にも有る苛《いじ》めッ児《こ》という奴だ。私の近処にも其が居た。
勘《かん》ちゃんと云って、私より二ツ三ツ年上で、獅子ッ鼻の、色の真黒けな児《こ》だったが、斯ういうのに限って乱暴だ。親仁《おやじ》は郵便局の配達か何かで、大酒呑で、阿母《おふくろ》はお引摺《ひきずり》と来ているから、常《いつ》も鍵裂《かぎざき》だらけの着物を着て、踵《かかと》の切れた冷飯草履《ひやめしぞうり》を突掛け、片手に貧乏徳利を提げ、子供の癖に尾籠《びろう》な流行歌《はやりうた》を大声に唱《うた》いながら、飛んだり、跳ねたり、曲駈《きょくがけ》というのを遣り遣り使に行く。始終使にばかり行っても居なかったろうが、私は勘ちゃんの事を憶出すと、何故だか常《いつ》も其使に行く姿を想出《おもいだ》す。
勘ちゃんは家《うち》では何も貰えぬから、人が何か持ってさえいれば、屹度《きっと》欲しがって、卒直にお呉ンなと云う。機嫌好く遣れば好し、厭だと頭振《かぶり》を振ると、顋《あご》を突出して、好《い》いよ好いよと云う。薄気味《うすきび》悪くなって遣ろうとするが、最う受取らない。好《い》いよ、呉れないと云ったね、好《い》いよと、其許《そればか》りを反覆《くりかえ》して行って了う。何となく気になるが、子供の事だ、遊びに耋《ほう》けて忘れていると、何時《いつ》の間にか勘ちゃんが、使の帰りに何処かで蛇の死んだのを拾って来て、窃《そっ》と背後《うしろ》から忍び寄て、卒然《いきなり》ピシャリと叩き付ける。ワッと泣き声揚げて此方《こちら》は逃出す、其後姿を勘ちゃんは白眼《しろめ》で見送って、「様《ざま》ア見やがれ!」
私は散々此勘ちゃんに苛《いじ》められた。初こそ悔しがって武者振り付いても見たが、勘ちゃんは喧嘩の名人だ。直《すぐ》と足搦《あしがら》掛けて推倒《おしたお》して置いて、馬乗りに乗ってピシャピシャ打《ぶ》つ。私にはお祖母《ばあ》さんが附いてるから、内では親にさえ滅多に打《ぶ》たれた事のない頭だ。その大切にせられている頭を、勘ちゃんは遠慮せずにピシャピシャ打《ぶ》つ。
一|度《ど》酷《ひど》い目に遭ってから、私は勘ちゃんが可怕《こわ》くて可怕くてならなくなった。勘ちゃんが側《そば》へ来ると、最う私は恟々《おどおど》して、呉れと言わない中《うち》から持ってる物を遣り、勘ちゃん、あの、賢ちゃんがね、お前の事を泥棒だッて言ってたよと、余計な事迄|告口《つげぐち》して、勉めて御機嫌を取っていた。斯うしていれば大抵は無難だが、それでも時々何の理由もなく、通りすがりに大切の頭をコツリと打《や》って行くこともある。
外《そと》は面白いが、勘ちゃんが厭だ。と云って、内でお祖母《ばあ》さんと睨《にら》めッこも詰らない。そこで、お隣のお光《みっ》ちゃんにお向うのお芳《よっ》ちゃんを呼んで来る。お光《みっ》ちゃんは外歯《そっぱ》のお出額《でこ》で河童のような児《こ》だったけれど、お芳《よっ》ちゃんは色白の鈴を張ったような眼で、好児《いいこ》だった。私は飯事《ままごと》でお芳《よっ》ちゃんの旦那様になるのが大好だった。お烟草盆《たばこぼん》のお芳《よっ》ちゃんが真面目腐って、貴方《あなた》、御飯をお上ンなさいなと云う。アイと私が返事をする。アイじゃ可笑《おかし》いわ
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