tらっていた男だが、不思議な事には、此時此手紙を読んで吃驚《びっくり》すると同時に、今夜こそはと奮《いき》り立っていた気が忽ち萎《な》えて、父母《ちちはは》が切《しき》りに懐かしく、何だか泣きたいような気持になって、儘になるなら直《すぐ》にも発《た》ちたかったが、こうなると当惑するのは、今日の観劇の費用が思ったよりも嵩《かさ》んで、元より幾何《いくばく》もなかった懐中が甚だ軽くなっている事だ。父が病気に掛ってから、度々送金を迫られても、不覚《つい》怠《おこた》っていたのだから、家《うち》の都合も嘸《さ》ぞ悪かろう。今度こそは多少の金を持って帰らんでは、如何《いか》に親子の間でも、母に対しても面目《めんぼく》ない。といって、お糸さんに迷ってから、散々無理を仕尽した今日此頃、もう一文《もん》の融通《ゆうずう》の余地もなく、又余裕もない。明日《あす》の朝二番か三番で是非|発《た》たなきゃならんがと、当惑の眼《まなこ》を閉じて床の中で凝《じっ》と考えていると、スウと音を偸《ぬす》んで障子を明ける者が有るから、眼を開《あ》いて見ると、先刻《さっき》迄|待憧《まちこが》れて今は忘れているお糸さんだ
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