ノ《きま》らずに居たのだ。
 極《きま》らぬのは私ではない。私は疾《と》うに極《き》めていた、無論東京へ行くと。
 東京は如何《どん》な処だか人の噂に聞く許《ばかり》で能《よ》くは知らなかったが、私も地方育ちの青年だから、誰も皆思うように、東京へ出て何処《どこ》かの学校へ入りさえすれば、黙っていても自然と運が向いて来て、或は海外留学を命ぜられるようになるかも知れぬ。若し然うなったら……と目を開《あ》いて夢を見ていたのも昨日《きのう》や今日の事でないから、何でも角《か》でも東京へ出たいのだが、さて困った事には、珍しくもない話だけれど、金の出処《でどころ》がない。
 父は其頃県庁の小吏であった。薄給でかつがつ一家を支えていたので、月給だけでは私を中学へ入れる事すら覚束《おぼつか》なかったのだが、幸い親譲りの地所が少々と小さな貸家が二軒あったので、其上りで如何《どう》にか斯うにか糊塗《まじく》なっていたのだ。だから到底《とて》も私を東京へ遣《や》れないという父の言葉に無理もないが、しかし……私は矢張《やっぱり》東京へ出たい。
 父は其頃未だ五十であった。達者な人だけに気も若くて、まだまだ十年や十五年は大丈夫生ていると、傍《はた》の私達も思っていたし、自分も其は其気でいた。従って世間の親達のように、早く私を月給取にして、嫁を宛《あて》がって、孫の世話でもしていたいなぞと、そんな気は微塵もないが、何分にも当節は勤向《つとめむき》が六《むず》かしくなって、もう永くは勤まらぬという。成程父は教育といっても、昔の寺子屋教育ぎりで、新聞も漢語字引と首引《くびっぴき》で漸く読み覚えたという人だから、今の学校出の若い者と机を列べて事務を執《と》らされては、嘸《さぞ》辛い事も有ろうと、其様《そん》な事には浮《うわ》の空の察しの無かった私にも、話を聞けば能く分って、同情が起らぬでもないが、しかし、それだからお前は県庁へ勤めるなとして自分一人だけの事は為《し》て呉れと、言われた時には情なかった。父は然うして置いて、何ぞ他《ほか》に気骨の折れぬ力相応の事をして県庁の方は辞職する。辞職しても当分はお前の世話にはなるまいと、財産相応の穏当な案を立てて、私の為をも思っていうのは解っているけれど、しかし私は如何《どう》しても矢張《やッぱり》東京へ出て何処かの学校へ入りたい。
 で、親子一つ事を反覆《くりかえ》すばかりで何日|経《た》っても話の纏まらぬ中《うち》に、同窓の何某《なにがし》はもう二三日|前《ぜん》に上京したし、何某《なにがし》は此|月末《つきずえ》に上京するという話も聞く。私は気が気でないから、眼の色を異《ちが》えて、父に逼《せま》り、果は血気に任せて、口惜《くや》し紛れに、金がないと言われるけれど、地面を売れば如何《どう》にかなりそうなものだ、それとも私の将来よりも地面の方が大事なら、学資は出して貰わんでも好い、旅費だけ都合して貰いたい、私は其で上京して苦学生になると、突飛《とっぴ》な事を言い出せば、父は其様《そん》な事には同意が出来ぬという、それは圧制だ、いや聞分《ききわけ》ないというものだと、親子顔を赤めて角芽立《つのめだ》つ側《そば》で、母がおろおろするという騒ぎ。
 其時私の為には頗る都合の好い事があった。私と同期の卒業生で父も懇意にする去る家の息子が、何処のも同じ様に東京行きを望んで、親に拒まれて、自暴《やけ》を起し、或夜|窃《ひそか》に有金《ありがね》を偸出《ぬすみだ》して東京へ出奔すると、続いて二人程其真似をする者が出たので、同じ様な息子を持った諸方の親々《おやおや》の大恐慌となった。父も此一件から急に我《が》を折って、彼方此方《あちこち》の親類を駈廻《かけまわ》った結果、金の工面《くめん》が漸く出来て、最初は甚《ひど》く行悩んだ私の遊学の願も、存外難なく聴《ゆる》されて、遂に上京する事になった時の嬉しさは今に忘れぬ。

          二十四

 愈《いよいよ》出発の当日となった。待ちに待った其日ではあるけれど、今となっては如何《どう》やら一日位は延ばしても好《い》いような心持になっている中《うち》に、支度はズンズン出来て、さて改まって父母《ちちはは》と別れの杯《さかずき》の真似事をした時には、何だか急に胸が一杯になって不覚《つい》ホロリとした。母は固《もと》より泣いた、快活な父すら目出度い目出度いと言いながら、頻《しきり》に咳をして涕《はな》[#「涕」はママ]を拭《か》んでいた。
 誂《あつら》えの俥《くるま》が来る。性急《せっかち》の父が先ず狼狽《あわ》て出して、座敷中を彷徨《うろうろ》しながら、ソレ、風呂敷包を忘れるな、行李は好《い》いか、小さい方だぞ、コココ蝙蝠傘《こうもりがさ》は己《おれ》が持ってッてやる、と固《もと》よ
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