闌ゥ送って呉れる筈なので、自分も一台の俥《くるま》に乗りながら、何は載ったか、何は……ソレ、あの、何よ……と、焦心《あせ》る程尚お想出せないで、何やら分らぬ手真似をして独り無上《むしょう》に車上で騒ぐ。
 母も門口まで送って出た。愈《いよいよ》俥《くるま》が出ようとする時、母は悲しそうに凝《じっ》と私の面《かお》を視て、「じゃ、お前ねえ、カカ身体を……」とまでは言い得たが、後《あと》が言えないで、涙になった。
 私は故意《わざ》と附元気《つけげんき》の高声《たかごえ》で、「御機嫌よう!」と一礼すると、俥《くるま》が出たから、其儘|正面《まむき》になって了ったが何だか後髪を引かれるようで、俥《くるま》が横町を出離れる時、一寸《ちょっと》後《うしろ》を振向いて見たら、母はまだ門前に悄然《しょんぼり》と立っていた。
 道々も故意《わざ》と平気な顔をして、往来を眺めながら、勉《つとめ》て心を紛らしている中《うち》に、馴染の町を幾つも過ぎて俥《くるま》が停車場《ステーション》へ着いた。
 まだ発車には余程|間《あいだ》があるのに、もう場内は一杯の人で、雑然《ごたごた》と騒がしいので、父が又|狼狽《あわ》て出す。親しい友の誰彼《たれかれ》も見送りに来て呉れた。其面《そのかお》を見ると、私は急に元気づいて、例《いつ》になく壮《さかん》に饒舌《しゃべ》った。何だか皆が私の挙動に注目しているように思われてならなかった。無論友達は家《うち》で立際《たちぎわ》に私の泣いたことを知る筈はないから……
 軈《やが》て発車の時刻になって、汽車に乗込む。手持無沙汰な落着かぬ数分《すふん》も過ぎて、汽笛が鳴る。私が窓から首を出して挨拶をする時、汽車は動出《うごきだ》して、父の眼をしょぼつかせた顔がチラリとして直ぐ後《あと》になる、見えなくなる。もうプラットフォームを出離れて、白ペンキの低い柵が走る、其向うの後向《うしろむ》きの二階家が走る、平屋が走る。片側町《かたかわまち》になって、人や車が後《あと》へ走るのが可笑《おか》しいと、其を見ている中《うち》に、眼界が忽ち豁然《からっ》と明くなって、田圃《たんぼ》になった。眼を放って見渡すと、城下の町の一角が屋根は黒く、壁は白く、雑然《ごたごた》と塊《かた》まって見える向うに、生れて以来十九年の間《あいだ》、毎日仰ぎ瞻《み》たお城の天守が遙に森の中に聳えている。ああ、家《うち》は彼下《あのした》だ……と思う時、始めて故郷を離れることの心細さが身に染《し》みて、悄然《しょんぼり》としたが、悄然《しょんぼり》とする側《そば》から、妙に又気が勇む。何だか籠のような狭隘《せせこま》しい処から、茫々と広い明るい空のような処へ放されて飛んで行くようで、何となく心臓の締るような気もするが、又何処か暢《のん》びりと、急に脊丈が延びたような気もする。
 こうした妙な心持になって、心当《こころあて》に我家の方角を見ていると、忽ち礑《はた》と物に眼界を鎖《とざ》された。見ると、汽車は截割《たちわ》ったように急な土手下を行くのだ。

          二十五

 申後れたが、私は法学研究のため上京するのだ。
 其頃の青年に、政治ではない、政論に趣味を持たん者は幾《ほと》んど無かった。私も中学に居る頃から其が面白くて、政党では自由党が大の贔負《ひいき》であったから、自由党の名士が遊説《ゆうぜい》に来れば、必ず其演説を聴きに行ったものだ。無論板垣さんは自分の叔父さんか何ぞのように思っていた。
 実際の政界の事情は些《ちッ》とも分っていなかった。自由党は如何《どう》いう政党だか、改進党と如何《どう》違うのだか、其様《そん》な事は分っているような風をして、実は些《ちッ》とも分っていなかったが、唯|初心《うぶ》な眼で局外から観ると、何だか自由党の人というと、其人の妻子は屹度《きっと》饑《うえ》に泣いてるように思われて、妻子が饑《うえ》に泣く――人情忍び難い所だ。その忍び難い所を忍んで、妻や子を棄てて置いて、而《そう》して自分は芸者狂いをするのじゃない、四方に奔走して、自由民権の大義を唱《とな》えて、探偵に跟随《つけ》られて、動《やや》もすれば腰縄で暗い冷たい監獄へ送られても、屈しない。偉いなあ! と、こう思っていたから、それで好きだった。
 好きは好きだったが、しかし友人の誰彼《たれかれ》のように、今直ぐ其真似は仕度《した》くない。も少し先の事にしたい。兎角理想というものは遠方から眺めて憧憬《あこが》れていると、結構な物だが、直ぐ実行しようとすると、種々《いろいろ》都合の悪い事がある。が、それでは何だか自分にも薄志弱行《はくしじゃっこう》のように思われて、何だか心持が悪かったが、或時何かの学術雑誌を読むと、今の青年は自己の当然修むべき学業を棄てて
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