^リと小石を手から落した。と、何だか急に悲しくなって来て耐《たま》らなくなって、往来の真中で私は到頭シクシク泣出した。

          二十

 ポチの殺された当座は、私は食が細って痩せた程だった。が、其程の悲しみも子供の育つ勢には敵《かな》わない。間もなく私は又毎日学校へ通って、友達を相手にキャッキャッとふざけて元気よく遊ぶようになった……

       ―――――――――――――――

 今日は如何《どう》したのか頭が重くて薩張《さっぱ》り書けん。徒書《むだがき》でもしよう。
[#ここから2字下げ]
愛は総ての存在を一にす。
愛は味《あじわ》うべくして知るべからず。
愛に住すれば人生に意義あり、愛を離るれば、人生は無意義なり。
人生の外《ほか》に出で、人生を望み見て、人生を思議する時、人生は遂に不可得《ふかとく》なり。
人生に目的ありと見、なしと見る、共に理智の作用のみ。理智の眼《まなこ》を抉出《けっしゅつ》して目的を見ざる処に、至味《しみ》存す。
理想は幻影のみ。
凡人《ぼんにん》は存在の中《うち》に住す、其一生は観念なり。詩人哲学者は存在の外《ほか》に遊離す、観念は其一生なり。
凡人《ぼんにん》は聖人の縮図なり。
人生の真味は思想に上らず、思想を超脱せる者は幸《さいわい》なり。
二十世紀の文明は思想を超脱せんとする人間の努力たるべし。
[#ここで字下げ終わり]
 此様《こん》な事ならまだ幾らでも列べられるだろうが、列べたって詰らない。皆|啌《うそ》だ。啌《うそ》でない事を一つ書いて置こう。
 私はポチが殺された当座は、人間の顔が皆犬殺しに見えた。是丈《これだけ》は本当の事だ。

          二十一

 小学から中学を終るまで、落第をも込めて前後十何年の間、毎日々々の学校通い、――考えて見れば面白くもない話だが、併し其を左程にも思わなかった。小学校の中《うち》は、内で親に小蒼蠅《こうるさ》く世話を焼かれるよりも、学校へ行って友達と騒ぐ方が面白い位に思っていたし、中学へ移ってからも、人間は斯うしたものと合点《がてん》して、何とも思わなかった。
 しかし、凡《およ》そ学科に面白いというものは一つも無かった。何《ど》の学科も何の学科も、皆《みんな》味も卒気もない顰蹙《うんざり》する物ばかりだったが、就中《なかんずく》私の最も閉口したのは数学であった。小学時代から然うだったが、中学へ移ってからも、是ばかりは変らなかった。此次は代数の時間とか、幾何《きか》の時間とかなると、もう其が胸に支《つか》えて、溜息が出て、何となく世の中が悲観された。
 算術は四則だけは如何《どう》やら斯うやら了解《のみこ》めたが、整数分数となると大分怪しくなって、正比例で一寸《ちょっと》息を吐《つ》く。が、其お隣の反比例から又|亡羊《うろうろ》し出して、按分比例で途方に暮れ、開平|開立《かいりゅう》求積となると、何が何だか無茶苦茶になって、詰り算術の長の道中を浮の空で通して了ったが、代数も矢張《やっぱ》り其通り。一次方程式、二次方程式、簡単なのは如何《どう》にかなっても、少し複雑のになると、|A《エー》と|B《ビー》とが紛糾《こぐら》かって、何時迄《いつまで》経《た》っても|X《エッキス》に膠着《こびりつ》いていて離れない。況《いわん》や不整方程式には、頭も乱次《しどろ》になり、無理方程式を無理に強付《しいつ》けられては、げんなりして、便所へ立ってホッと一息|吐《つ》く。代数も分らなかったが幾何《きか》や三角術は尚分らなかった。初の中《うち》は全く相合《あいあわ》せ得る物の大《おおい》さは相等しなどと真顔で教えられて、馬鹿《ばか》扱《あつかい》にするのかと不平だったが、其中《そのうち》に切売の西瓜《すいか》のような弓月形《きゅうげつけい》や、二枚屏風を開いたような二面角が出て来て、大きなお供《そなえ》に小さいお供《そなえ》が附着《くっつ》いてヤッサモッサを始める段になると、もう気が逆上《うわず》ッて了い、丸呑《まるのみ》にさせられたギゴチない定義や定理が、頭の中でしゃちこばって、其心持の悪いこと一通りでない。試験が済むと、早速|咽喉《のど》へ指を突込んで留飲《りゅういん》の黄水《きみず》と一緒に吐出せるものなら、吐出して了って清々《せいせい》したくなる。
 何の因果で此様《こん》な可厭《いや》な想《おもい》をさせられる事か、其は薩張《さっぱり》分らないが、唯此|可厭《いや》な想《おもい》を忍ばなければ、学年試験に及第させて貰えない。学年試験に及第が出来ぬと、最終の目的物の卒業証書が貰えないから、それで誠に止むことを得ず、眼を閉《ねむ》って毒を飲む気で辛抱した。
 尤も是は数学ばかりでない。何《ど》の学科も皆多少とも此気味がある。味わって楽む
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