鰍ニ廻ったポチの姿が、顕然《まざまざ》と目に見えるような気がする。熱い涙がほろほろ零《こぼ》れる、手の甲で擦《こす》っても擦っても、止度《とめど》なくほろほろ零《こぼ》れる。
十九
ポチが殺されて、私は気脱けしたようになって、翌日は学校も休んだ。何も自分が罪を犯したでもないのに、何となく友達に顔を見られるのが辛くッて……
午過《ひるすぎ》にポチが殺されたという木村という家《うち》の前へ行って見た。其処か此処かと尋ねて見たけれど、もう其らしい痕《あと》もない。私は道端に彳《たたず》んで、茫然としていた。
炭屋の老爺《じい》やの話だと、うッかり寝転んでいる所を殺されたのだと云う。大方|昨日《きのう》も私の帰りを待ちかねて、此処らまで迎えに出ていたのであろう。待草臥《まちくたび》れて、ドタリと横になって、角《かど》のポストの蔭から私の姿がヒョッコリ出て来はせぬかと、其方ばかりを余念なく眺《なが》めている所へ、犬殺しが来たのだ。人間は皆私達親子のように自分を可愛がって呉れるものと思っているポチの事だから、犬殺しとは気が附かない。何心なく其面《そのかお》を瞻上《みあ》げて尾を掉《ふ》る所を、思いも寄らぬ太い棍棒がブンと風を截《き》って来て……と思うと、又胸が一杯になる。
ヒュウと悲しい音を立てて、空風《からかぜ》が吹いて通る。跡からカラカラに乾いた往来の中央《まんなか》を、砂烟《すなけぶり》が濛《ぼっ》と力のない渦を巻いて、捩《よじ》れてひょろひょろと行く。
私は其行方を眺めて茫然としていた。と、何処でかキャンキャンと二声三声犬の啼声がする……佶《きっ》と耳を引立《ひった》って見たが、もう其切《それきり》で聞えない。隣町あたりで凍《かじ》けたような物売の声がする。
何だか今の啼声が気になる。ポチは殺されたのだから、もう此処らで啼いてる筈はない。余所の犬だ余所の犬だ、と思いながら、何だか其儘聞流して了うのが残惜しくて、思わずパタパタと駈出したが、余所の犬じゃ詰らないと思返して、又|頽然《ぐたり》となると、足の運びも自然と遅《おそ》くなり、そろりそろりと草履を引摺《ひきずり》ながら、目的《あて》もなく小迷《さまよ》って行く。
小迷《さまよ》って行きながら、又ポチの事を考えていると、ふッと気が変って、何だか昨日《きのう》からの事が皆《みんな》嘘らしく思われてならぬ。私が余《あんま》りポチばかり可愛がって勉強をしなかったから、父が万一《ひょっと》したら懲《こら》しめのため、ポチを何処かへ匿《かく》したのじゃないかと思う。そうすると、今の啼声は矢張《やっぱり》ポチだったかも知れぬと、うろうろとする目の前を、土耳其帽《トルコぼう》を冠《かぶ》った十徳姿の何処かのお祖父《じい》さんが通る。何だか深切そうな好《い》いお祖父《じい》さんらしいので、此人に聞いたら、偶然《ひょっ》とポチの居処《いどころ》を知っていて、教えて呉れるかも知れぬと思って、凝然《じっ》と其面《そのかお》を視ると、先も振向いて私の面《かお》を視て、莞爾《にッこり》して行って了った。
向うから順礼の親子が来る。笈摺《おいずる》も古ぼけて、旅窶《たびやつ》れのした風で、白の脚絆《きゃはん》も埃《ほこり》に塗《まぶ》れて狐色になっている。母の話で聞くと、順礼という者は行方知れずになった親兄弟や何かを尋ねて、国々を経巡《へめぐ》って歩くものだと云う。此人達も其様《そん》な事で斯うして歩いているのかも知れぬ、と思うと、私も何だか此仲間へ入って一緒にポチを探して歩きたいような気がして、立止って其の後姿を見送っていると、忽ち背後《うしろ》でガラガラと雷の落懸《おちかか》るような音がしたから、驚いて振向こうとする途端《とたん》に、トンと突飛されて、私はコロコロと転がった。
「危ねい! 往来の真ン中を彷徨《うろうろ》してやがって……」とせいせい息を逸《はず》ませながら立止って怒鳴り付けたのは、目の怕《こわ》い車夫であった。
車には黒い高い帽子を冠《かぶ》って、温《あった》かそうな黄ろい襟の附いた外套を被《き》た立派な人が乗っていたが、私が面《かお》を顰《しか》めて起上《おきあが》るのを尻眼に掛けて、髭《ひげ》の中でニヤリと笑って、
「鎌蔵《かまぞう》、構わずに行《や》れ。」
「へい……本当《ふんと》に冷りとさせやがった。気を付けろ、涕垂《はなた》らしめ! ……」
と車夫は又トットッと曳出した。
紳士は犬殺しでない。が、ポチを殺した犬殺しと此人と何だか同じように思われて、クラクラと目が眩《くら》むと、私はもう無茶苦茶になった。卒然《いきなり》道端《みちばた》の小石を拾って打着《ぶっつ》けてやろうとしたら、車は先の横町へ曲ったと見えて、もう見えなかった。
パ
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