ソゃんが言掛けると、仲善《なかよし》の友の言う事だが、私は何だか急に口惜《くや》しくなって、赫《かっ》と急込《せきこ》んで、
「何でい! 大丈夫だい※[#感嘆符二つ、1−8−75] ……」
 と怒鳴り付けた。賢ちゃんが吃驚《びッくり》して眼を円くした時、私は卒然《いきなり》バタバタと駈出し、前へ行く児にトンと衝当《つきあた》る。何しやがるンだいと、其児に突飛されて、又誰だかに衝当《つきあた》る。二三度|彼方此方《あちこち》で小突かれて、蹌踉《よろよろ》として、危《あや》うかったのを辛《やッ》と踏耐《ふんごた》えるや、後《あと》をも見ずに逸散《いっさん》に宙を飛で家《うち》へ帰った。

          十八

 門は明放《あけばな》し、草履は飛び飛びに脱棄てて、片足が裏返しになったのも知らず、「阿母《おっか》さん阿母さん!」と卒然《いきなり》内へ喚《わめ》き込んだが、母の姿は見えないで、台所で返事がする。
 誰だか来て居るようで、話声がしているけれど、其様《そん》な事に頓着しては居られない。学校道具を座敷の中央《まんなか》へ抛《ほう》り出して置いて台所へ飛んで行くなり、
「阿母《おッか》さん! ……ポチは? ……」
 と喘《あえ》ぎ喘ぎまず聞いてみた。
 母は黙って此方《こちら》を向いた。常は滅入ったような蒼い面《かお》をしている人だったが、其時|此方《こちら》を向いた顔を見ると、微《ぼッ》と紅《あか》くなって、眼に潤《うる》みを持ち、どうも尋常《ただ》の顔色《かおいろ》でない。私は急に何か物に行当ったようにうろうろして、
「殺されたかい? ……」
 と凝《じっ》と母の面《かお》を視た時には、気息《いき》が塞《つま》りそうだった。
 母は一寸《ちょっと》躊躇《ためら》ったようだったが、思切って投出すように、
「殺されたとさ……」
 逸散《いっさん》に駈て来て、ドカッと深い穴へ落ちたら、彼様《あん》な気がするだろうと思う。私は然う聞くと、ハッと内へ気息《いき》を引いた。と、張詰めて破裂《はちき》れそうになっていた気がサッと退《ひ》いて、何だか奥深い穴のような処へ滅入って行くようで、四辺《あたり》が濛《ぼっ》と暗くなると、母の顔が見えなくなった……
「炭屋さんが見て来なすッたンだッさ。」
 という声がふと耳に入ると、クワッとまた其処らが明るくなって眼の前に丸髷が見える。母は又|彼方《あちら》向いて了ったのだ。
「じゃ、木村さん処《とこ》の前で殺されたんですね?」と母の声がいう。
「へえ」、という者がある。機械的に其方へ面《かお》を向けると、腰障子の蔭に、旧い馴染《なじみ》の炭屋の爺やの、小鼻の脇に大きな黒子《ほくろ》のある、皺《しわ》だらけの面《かお》が見えて、前歯の二本脱けた間から、チョコチョコ舌を出して饒舌《しゃべ》っている声が聞える。「丁度あの木村さんの前ン処《とこ》なんで。手前《てまえ》は初めは何だと思いました。棒を背後《うしろ》へ匿《かく》してましたから、遠くで見たんじゃ、ほら、分りませんや。一寸《ちょいと》見ると何だか土方のような奴で、其奴《そいつ》がこう手を背後《うしろ》へ廻しましてな、お宅の犬の寝ている側《そば》へ寄ってくから、はてな、何をするンだろう、と思って見ていますと、彼様《あん》な人懐《ひとなつ》っこい犬だから、其奴《そいつ》の面《かお》を見て、何にも知らずに尻尾を掉《ふ》ってましたよ。可哀《かわい》そうに! 普通《なみ》の者なら、何ぼ何でも其様《そん》なにされちゃ、手を下《おろ》せた訳合《わけあい》のもんじゃございません、――ね、今日《こんにち》人情としましても。それを、貴女《あなた》……いや、どうも、ああいう手合に逢っちゃ敵《かな》いませんて、卒然《いきなり》匿《かく》してた棒を取直して、おやッと思う間に、ポンと一つ鼻面を打《ぶ》ちました。そうするとな、お宅のは勃然《むっくり》起きましてな、キリキリと二三遍廻って、パタリと倒れると、仰向きになってこう四足《よつあし》を突張りましてな、尻尾でバタバタ地面《ちべた》を叩いたのは、あれは大方|苦《くるし》がったんでしょうが、傍《はた》で見ていりゃ何だか喜んで尻尾を掉《ふ》ったようで、妙な塩梅《あんばい》しきでしたがな、其処を、貴女《あなた》、またポカポカと三つ四つ咽喉《のど》ン処《とこ》を打《ぶ》ちますとな、もう其切《それっき》りで、ギャッともスウとも声を立て得ないで、貴女《あなた》……」
 私はもう後《あと》は聴いていなかった。誰《たれ》を憚《はばか》る必要もないのに、窃《そっ》と目立たぬように後方《うしろ》へ退《さが》って、狐鼠々々《こそこそ》と奥へ引込《ひっこ》んだ。ベタリと机の前へ坐った。キリキリと二三遍廻ったという今聞いた話が胸に浮ぶと、そのキリキ
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