X《はす》の糸のようになって、此世を離れて暗い無限へ消えて行きそうになる時の儚《はかな》さ便りなさは、聴いている身も一緒に消えて行きそうで、早く何とかして貰いたいような、もうもう耐《たま》らぬ心持になると、消えかけた声が又急に盛返して来て、遂にパッと明るみへ出たような気丈夫な声になる。好《い》い声だ。節廻しも巧《たくみ》だが、声を転がす処に何とも言えぬ妙味がある。ズッと張揚げた声を急に落して、一転二転三転と急転して、何かを潜って来たように、パッと又|浮上《うきあが》るその面白さは……なぞと生意気をいうけれど、一体|新内《しんない》をやってるのだか、清元《きよもと》をやってるのだか、私は夢中だった。
俗曲《ぞっきょく》は分らない。が、分らなくても、私は大好きだ。新内でも、清元でも、上手の歌うのを聴いていると、何だか斯う国民の精粋とでもいうような物が、髣髴《ほうふつ》として意気な声や微妙な節廻しの上に顕《あら》われて、吾心の底に潜む何かに触れて、何かが想い出されて、何とも言えぬ懐かしい心持になる。私は之を日本国民の二千年来此生を味うて得た所のものが、間接の思想の形式に由らず、直《ただち》に人の肉声に乗って、無形の儘で人心に来《きた》り逼《せま》るのだとか言って、分明な事を不分明にして其処に深い意味を認めていたから、今お糸さんの歌うのを聴いても、何だか其様《そん》なように思われて、人生の粋《すい》な味や意気な味がお糸さんの声に乗って、私の耳から心に染込《しみこ》んで、生命の髄に触れて、全存在を撼《ゆる》がされるような気がする。
お糸さんの顔は椽側からは見えないけれど屹度《きっと》少しボッと上気して、薄目を開《あ》いて、恍惚として我か人かの境を迷いつつ、歌っているに違いない。所謂《いわゆる》神来《しんらい》の興が中《うち》に動いて、歌に現《うつつ》を脱《ぬ》かしているのは歌う声に魂の入《い》っているので分る。恐らくもう側《そば》でお神さんや下女の聴いてることも忘れているだろう。お糸さんは最う人間のお糸さんでない。人間のお糸さんは何処へか行って了って、体に俗曲の精霊が宿っている、而《そう》してお糸さんの美音を透《とお》して直接に人間と交渉している。お糸さんは今俗曲の巫女《いちこ》である、薩満《シャマン》である。平生のお糸さんは知らず、此瞬間のお糸さんはお糸さん以上である、いや、人間以上で神に近い人である。
斯う思うと、時としては斯うして人間を離れて芸術の神境に出入《しゅつにゅう》し得るお糸さんは尋常《ただ》の人間でないように思われる。お糸さんの人と為りは知らないが、歌に於て三味線に於てお糸さんは確に一個の芸術家である、事に寄ると、芸術家と自覚せぬ芸術家である。要するに、俗物でない。
私も不肖ながら芸術家の端《はし》くれと信ずる。お糸さんの人となりは知らないでも、芸術家の心は唯芸術家のみ能《よ》く之を知る。此下宿に客多しと雖も、能《よ》くお糸さんを知る者は私の外にあるまい。私の心を解し得る者も、お糸さんの外には無い筈である……と思うと、まだ碌に物を言た事もないお糸さんだけれど、何だかお糸さんが生れぬ前《さき》からの友のように思われて、私は……ああ、私は……
五十四
私の下宿ではいつも朝飯《あさめし》が済んで下宿人が皆出払った跡で、緩《ゆッ》くり掃除や雑巾掛《ぞうきんがけ》をする事になっていた。お糸さんは奉公人でないから雑巾掛《ぞうきんがけ》には関係しなかったが、掃除だけは手伝っていたので、いつも其時分になると、お掃除致しましょうと言っては私の部屋へ来る。私は内々《ないない》其を心待にしていて、来ると急いで部屋を出て椽側を彷徨《うろつ》く。彷徨《うろつ》きながら、見ぬ振をして横目でチョイチョイ見ていると、お糸さんが赤い襷《たすき》に白地の手拭を姉様冠《あねさまかぶ》りという甲斐々々しい出立《いでたち》で、私の机や本箱へパタパタと払塵《はたき》を掛けている。其を此方《こッち》から見て居ると、お糸さんが何だか斯う私の何かのような気がして、嬉しくなって、斯うした処も悪くないなと思う。
ところが、お糸さんが三味線《さみせん》を弾《ひ》いた翌朝《あくるあさ》の事であった。万事が常よりも不手廻《ふてまわ》りで、掃除にもいつも来るお糸さんが来ないで、小女《ちび》が代りに来たから、私は不平に思って、如何《どう》したのだと詰《なじ》るようにいうと、今日はお竹どんが病気で寝ているので、受持なんぞの事を言っていられないのだと云う。其なら仕方が無いようなものだけれど、小女《ちび》のは掃除するのじゃなくて、埃《ほこり》をほだてて行くのだから、私が叱り付けてやったら、小女《ちび》は何だか沸々《ぶつぶつ》言って出て行った。
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