pを達《た》しに行《い》こうと思って、ヒョイと私が部屋を出ると、何時《いつ》来たのか、お糸さんがツイ其処で、着物の裾をクルッと捲《まく》った下から、華美《はで》な長襦袢だか腰巻だかを出し掛けて、倒《さか》さになって切々《せっせっ》と雑巾掛《ぞうきんが》けをしていた。私の足音に振向いて、お邪魔様といって、身を開いて通して呉れて、お糸さんは何とも思っていぬ様だったが、私は何だか気の毒らしくて、急いで二階を降りて了った。
 用を達《た》してから出て来て見ると、手水鉢《ちょうずばち》に水が無い。小女《ちび》は居ないかと視廻《みまわ》す向うへお糸さんが、もう雑巾掛《ぞうきんがけ》も済んだのか、バケツを提げてやって来たが、ト見ると、直ぐ気が附いて、
「おや、そうだッけ……只今直ぐ持って参りますよ。」
 と駈出して行って、台所から手桶を提げて来て、
「お待遠様。」
 とザッと水を覆《あ》ける時、何処の部屋から仕掛けたベルだか、帳場で気短に消魂《けたたま》しくチリリリリリンと鳴る。
 お神さんが台所から面《かお》を出して、
「誰も居ないのかい? 十番さんで先刻《さっき》からお呼なさるじゃないか。」
「へい、只今……」
 とお糸さんが矢張《やっぱり》下女並の返事をして、
「お三どん新参で大狼狽《おおまごつき》……」
 と私の面《かお》を見て微笑《にッこり》しながら、一寸《ちょいと》滑稽《おどけ》た手附をしたが、其儘|所体《しょてい》崩《くず》して駈出して、表梯子《おもてはしご》をトントントンと上《あが》って行く。
 私が手を洗って二階へ上《あが》って見たら、お糸さんは既《も》う裾を卸《おろ》したり、襷《たすき》を外したりして、整然《ちゃん》とした常の姿《なり》になって、突当りの部屋の前で膝を突いて、何か用を聴いていた。
 私は部屋へ帰って来て感服して了った。お糸さんは歌が旨い、三味線も旨い、女ながらも立派な一個の芸術家だ。その芸術家が今日は如何《どう》だろう? お竹が病気なら仕方がないようなものの、全《まる》で下女同様に追使われている。下女同様に追使われて、慣れぬ雑巾掛《ぞうきんがけ》までさせられた上に、無理な小言を言われても、格別厭な面《かお》もせずに、何とか言ったッけ? 然う然う、お三どん新参で大狼狽《おおまごつき》といって微笑《にっこり》……偉い! 余程《よっぽど》気の練れた者でなければ、如彼《ああ》は行《い》かぬ。これがお竹ででも有ろうものなら、直ぐ見たくでもない面《つら》を膨《ふく》らして、沸々《ぶつぶつ》口小言を言う所だ。それを常談事《じょうだんごと》にして了って、お三どん新参で大狼狽《おおまごつき》といって微笑《にっこり》……偉い!

          五十五

 感服の余り、私は何とかして此自覚せぬ芸術家に敬意を表したいと思ったが、併し奉公人同様に金など包んでは出されない、何でも品物を呈するに限ると、何故だか独りで極《き》めて掛って、惨澹たる苦心の末、雪江《せっこう》一代の智慧を絞り尽して、其翌日の昼過ぎ本郷の一友人を尋ねて、嘘《うそ》八百を陳《なら》べ立て、其細君を誘《そその》かして半襟を二掛見立てて買って来て貰った。値段の処も私にしては一寸《ちょっと》奮《はず》んだ積《つもり》だった。
 早く之をお糸さんに呈して其喜ぶ顔を見たいと、此処らは未来の大文豪も俗物と余り違《ちが》わぬ心持になって、何だか切《しき》りに嬉しがって、莞爾《にこにこ》して下宿へ帰ったのは丁度|夕飯《ゆうはん》時分《じぶん》だったが、火を持って来たのは小女《ちび》、膳を運んで来たのはお竹どんで、お糸さんは笑声が余所の部屋でするけれど、顔も見せない、私は何となく本意《ほい》なかった。
 待侘びて独りで焦《じ》れていると、軈《やが》て目差すお糸さんが膳を下げに来たから、此処ぞと思って、極《きま》りが悪かったが、思切って例の品を呈した。大《おおい》に喜ぶかと思いの外、お糸さんは左《さ》して色を動かさず、軽く礼を言って、一寸《ちょっと》包みを戴いて、膳と一緒に持って行って了った。唯|其切《それぎり》で、何だか余り飽気《あっけ》なかった。
 何時間|経《た》ったか、久《しば》らくすると、部屋の障子がスッと開《あ》いた。振向いて見ると、思いがけずお糸さんが入口に蹲《うずく》まって、両手を突いて、先刻《さっき》の礼を又言ってお辞儀をする。私は何となく嬉しかった。お床を延べましょうかというから、敷《と》って呉れというと、例の通り戸棚から夜具を出す時、昨夜《ゆうべ》も今朝も手に掛けて知っている筈の枕皮《まくらがわ》の汚に始めて気が附いて、明日《あした》洗いましょうという。なに、洗濯屋に出すから好《い》いと言っても、此様《こん》な物を洗うのは雑作《ぞうさ》もないといって聴か
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