ーに来たら、今度こそは勇気を振起して物を言って見よう、私のように黙って居ては、何時迄《いつまで》経《た》っても接近は出来ん、なぞと思っていると、隣室で女の笑い声がする。下女の声ではない。今のに違いない。隣の俗物め、もう捉《つか》まえて戯言《じょうだん》でも言ってると見える。

          五十二

 其晩膳を下げに来るかと心待に待っていたら、其には下女が来て、女は顔を見せなかった。翌朝《よくあさ》は女が膳を運んで来たが、卒《いざ》となると何となく気怯《きおく》れがして、今は忙《いそが》しそうだから、昼の手隙《てすき》の時にしよう、という気になる。で、言うべき文句迄|拵《こしら》えて、掻くようにして昼を待っていると、昼が来て、成程手隙《てすき》だから、他《ほか》の者は遊んでいて小女《ちび》が膳を運んで来る。
 三四日|経《た》った。いつも女の助《す》けるのは朝晩の忙がしい時だけで、昼は顔も出さない。考えて見ると、奉公人でないから其筈だが、私は失望した。顔は度々合せるから漸く分ったが、能《よ》く見ると、雀斑《そばかす》が有って、生際《はえぎわ》に少し難が有る。髪も更少《もすこ》し濃かったらと思われたが、併し何となく締りのあるキリッとした面相《かおだち》で、私は矢張《やっぱり》好《い》いと思った。名はお糸といってお神さんの姪だとか云う。皆下女からの復聞《またぎき》だ。
 何とかして一日も早く接近したいが、如何《どう》も顔を合せると、物が言えなくなる。昼間廊下で行逢った時など、女は小腰を屈《かが》めて会釈するような、せんような、曖昧な態度で摺脱《すりぬ》けて行く。其様《そん》な時に接近したがってる事は色にも出さずに、ヒョイと、軽く、些《ちッ》と話に入らッしゃい、とか何とか言ったら、最終《しまい》には来るようになるかも知れんとは思うけれど、然う思うばかりで、私の口は重たくて、ヒョイと、軽く、其様《そん》な事が言えない。
 度々|面《かお》を合せても物を言わんから、段々何だか妙に隔てが出来て来て、改めて物を言うのが最う変になって来る。此分だと、余程《よッぽど》何か変った事が、例えば、火事とか大地震とかがあって、人心の常軌を逸する場合でないと、隔ての関を破って接近されなくなりそうだ。ああ、初て部屋へ来た時、何故私は物を言わなかったろうと、千悔万悔《せんかいばんかい》、それこそ臍《ほぞ》を噬《か》むけれど、追付《おッつ》かない。然るに、私は接近が出来ないで此様《こん》なに煩悶しているのに、隣の俗物は苦もなく日増しに女に親しむ様子で、物を言交《いいかわ》す五分間がいつか十分二十分になる。何だか知らんが、睦まじそうに密々話《ひそひそばなし》をしているような事もある。一度なんぞ女に脊中を叩かれて俗物が莞爾々々《にこにこ》している所を見懸けた。私は気が気でない……
 藻掻いていると、確か女が来てから一週間目だったかと思う、朝からのビショビショ降《ぶ》りが昼過ても未だ止まない事があった。鬱陶敷《うっとうしく》て、気が滅入って、幾ら書いても思う様に書けないから、私はホッとして、頭を抱えて、仰向《あおむき》に倒れて茫然としていたが、
「早く如何《どう》かせんと不好《いかん》!」
 と判然《はっきり》と独言《ひとりごと》をいって起反《おきかえ》った。独言《ひとりごと》は小説に関係した事ではないので、女の事なので。
 すると、余り遠くでない、去迚《さりとて》近くでもない何処かで、ポツンポツンと意気な音《ね》がする。隣の家《うち》で能《よ》く琴を浚《さら》っているが、三味線《さみせん》を弾《ひ》いてた事はない。それに隣にしては近過ぎる。家《うち》には弾《ひ》く者は無い筈だが……と耳を澄していると、軈《やが》て歌い出す声は如何《どう》しても家《うち》だ。例のに違いない。
 私は起上《おきあが》ってブラリと廊下へ出た。

          五十三

 廊下へ出て耳を澄して見たが、三味線《さみせん》は聞えても、矢張《やっぱり》歌が能く聞えない。が、愈《いよいよ》例のに違いないから、私は意を決して裏梯子《うらばしご》を降りて、大廻りをして、窃《こっ》そり台所近くへ来て見ると、誰《たれ》も居ない。皆其隣の家《うち》の者の住居《すまい》にしてある座敷に塊《かた》まっているらしい。好《い》い塩梅《あんばい》だと、私は椽側に佇立《たたず》んで、庭を眺めている風《ふり》で、歌に耳を傾《かたぶ》けていた。
 好《い》い声だ。たッぷりと余裕のある声ではないが、透徹《すきとお》るように清い、何処かに冷たい処のあるような、というと水のようだが、水のように淡くはない、シンミリとした何とも言えぬ旨味《うまみ》のある声だ。力を入れると、凛《りん》と響く。脱《ぬ》くと、スウと細く、果は
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