魔フ無い男だ。いつも形勢が既に定《さだま》って動かすべからずなって、其形勢に制せられて始て決心するのだから、学校を除籍せられたばかりでは、未だ決心が出来なかった。唯下宿に臥転《ねころ》んでグズリグズリとして文士に為りそうになっていたのだ。
始めて決心したのは、如何《どう》してか不始末が国へ知れて父から驚いた手紙の来た時であった。行懸りで愚図々々はしていられなくなったから、始めて斯うと決心して事実を言って同意を求めてやると、父からは怒《おこ》った手紙が来る、母からは泣いた手紙が来る。親達が失望して情ながる面《かお》は手紙の上に浮いて見えるけれど、こうなると妙に剛情《ごうじょう》になって、因襲の陋見《ろうけん》に囚《とら》われている年寄の白髪頭《しらがあたま》を冷笑していた。親戚の某《なにがし》が用事が有って上京した序《ついで》に、私を連れて帰ろうとしたが、私は頑として動かなかった。そこで学資の仕送りは絶えた。
こうなるは最初から知れていながら、私は弱った。仕方がないから、例の某大家に縋《すが》って書生に置いて貰おうとすると、先生は相変らずグズリグズリと煮切らなかったが、奥さんが飽迄《あくまで》不承知で、先生を差措《さしお》いて、御自分の口から断然《きっぱり》断られた。私は案外だった。頼めば二つ返事で引受けて呉れるとばかり思っていたから、親戚の者が連れて行こうとした時にも、言わでもの広言迄吐いて拒んだのだが、こう断られて見ると、何だか先生夫婦に欺《あざむ》かれたような気がして、腹が立って耐《な》らなかった。世間の人は皆私の為に生きているような気でいたからだ。
もう斯うなっては、仕方がない、書けても書けんでも、筆で命を繋《つな》ぐより外《ほか》仕方がない。食うと食わぬの境になると、私でも必死になる。必死になって書いて書いて書捲《かきまく》って、その度に、悪感情は抱《いだ》いていたけれど、仕方がないから、某大家の所へ持って行って、筆を加えて貰った上に、売って迄貰っていた。其が為には都合上門人とも称していた。然うして一二年苦しんでいる中《うち》に、どうやら曲りなりにも一本立が出来るようになると、急に此前奥さんに断られた時の無念を想出《おもいだ》して、夫からは根岸のお宅へも無沙汰《ぶさた》になった。もう先生に余り用はない。先生は或は感情を害したかも知れないが、先生が感情を害したからって、世間が一緒になって感情を害しはすまいし……と思ったのではない、決して左様《そん》な軽薄な事は思わなかったが、私の行為を後《あと》から見ると、詰り然う思ったと同然になっている。
先生には用が無くなったが、文壇には用が有るから、私は広く交際した。大抵の雑誌には一人や二人の知己が出来た。こうして交際を広くして置くと、私の作が出た時に、其知己が余り酷《むご》くは評して呉れぬ。無論感服などする者は一人もない。私などに感服しては見識に関わる。何かしら瑕疵《きず》を見付けて、其で自分の見識を示した上で、しかし、まあ、可なりの作だと云う。褒《ほめ》る時には屹度《きっと》然う云う。私は局量が狭いから、批評家等が誰《たれ》も許しもせぬのに、作家よりも一段|上座《じょうざ》に坐り込んで、其処から曖昧《あやふや》な鑑識で軽率に人の苦心の作を評して、此方の鑑定に間違いはない、其通り思うて居れ、と言わぬばかりの高慢の面付《つらつき》が癪《しゃく》に触《さわ》って耐《たま》らなかったが、其を彼此《かれこれ》言うと、局量が狭いと言われる。成程其は事実だけれど、そう言われるのが厭だから、始終黙って憤《おこ》っていた。其癖批評家の言う所で流行の趨《おもむ》く所を察して、勉めて其に後れぬようにと心掛けていた……いや、心掛けていたのではない、其様《そん》な不見識な事は私の尤も擯斥《ひんせき》する所だったが、後《あと》から私の行為を見ると矢張《やっぱり》然う心掛けたと同然になっている。
四十八
久《しば》らく文壇を彷徨《うろうろ》している中《うち》に、当り作が漸く一つ出来た。批評家等は筆を揃えて皆近年の佳作だと云う。私は書いた時には左程にも思わなかったが、然う言われて見ると、成程佳作だ。或は佳作以上で、傑作かも知れん。私は不断紛々たる世間の批評以外に超然としている面色《かおつき》をしていて、実は非難《けな》されると、非常に腹が立って、少しでも褒《ほ》められると、非常に嬉しかったのだ。
当り作が出てからは、黙っていても、雑誌社から頼みに来る、書肆《しょし》から頼みに来る。私は引張凧《ひっぱりだこ》だ……トサ感じたので、なに、二三軒からの申込が一|時《じ》一寸《ちょっと》累《かさ》なったのに過ぎなかった。
嬉しかったので、調子に乗って又書くと、又評判が好《い》い。
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