zうなると、世間の注目は私一身に叢《あつ》まっているような気がして、何だか嬉しくて嬉しくて耐《たま》らないが、一方に於ては此評判を墜《おと》しては大変という心配も起って来た。で、平生は眼中に置かぬらしく言っていた批判家《ひひょうか》等《ら》に褒《ほめ》られたいが一杯で、愈《いよいよ》文学に熱中して、明けても暮れても文学の事ばかり言い暮らし、眼中唯文学あるのみで、文学の外《ほか》には何物もなかった。人生あっての文学ではなくて、文学あっての人生のような心持で、文学界以外の人生には殆ど何の注意も払わなかった。如何なる国家の大事が有っても、左程胸に響かなかった代り、文壇で鼠がゴトリというと、大地震の如く其を感じて騒ぎ立てた。之を又|真摯《しんし》の態度だとかいって感服する同臭味《どうしゅうみ》の人が広い世間には無いでもなかったので、私は老人がお宗旨に凝るように、愈《いよいよ》文学に凝固《こりかた》まって、政治が何だ、其日送りの遣繰仕事《やりくりしごと》じゃないか? 文学は人間の永久の仕事だ。吾々は其高尚な永久の仕事に従う天の選民だと、其日を離れて永久が別に有りでもするような事を言って、傲然として一世を睥睨《へいげい》していた。
文学上では私は写実主義を執《と》っていた。それも研究の結果写実主義を是《ぜ》として写実主義を執《とっ》たのではなくて、私の性格では勢い写実主義に傾かざるを得なかったのだ。
写実主義については一寸《ちょっと》今の自然主義に近い見解を持って、此様《こん》な事を言っていた。
写実主義は現実を如実に描写するものではない。如実に描写すれば写真になって了う。現実の(真《しん》とは言わなかった)真味を如実に描写するものである。詳しく言えば、作家のサブジェクチウィチー即ち主観に摂取し得た現実の真味を如実に再現するものである。
人生に目的ありや、帰趨ありや? 其様《そん》な事は人間に分るものでない。智の力で人生の意義を掴《つか》まんとする者は狂せずんば、自殺するに終る。唯人生の味《あじわい》なら、人間に味える。味っても味っても味い尽せぬ。又味わえば味わう程味が出る。旨い。苦中にも至味《しみ》はある。其|至味《しみ》を味わい得ぬ時、人は自殺する。人生の味いは無限だけれど、之を味わう人の能力には限りがある。
唯人は皆同じ様に人生の味《あじわい》を味わうとは言えぬ。能《よ》く料理を味わう者を料理通という。能《よ》く人生を味わう者を芸術家という。料理通は料理人でない如く、能《よ》く人生を味わう芸術家は能《よ》く人生を経理せんでも差支えはない。
道徳は人生を経理するに必要だろうけれど、人生の真味を味わう助《たすけ》にはならぬ。芸術と道徳とは竟《つい》に没交渉である。
是が私の見解であった。浅薄はさて置いて、此様《こん》な事を言って、始終言葉に転ぜられていたから、私は却て普通人よりも人生を観得なかったのである。
四十九
私の文学上の意見も大業だが、文学については先《ま》あ其様《そん》な他愛のない事を思って、浮れる積《つもり》もなく浮れていた。で、私の意見のようにすると、味《あじわ》わるるものは人生で、味わうものは作家の主観であるから、作家の主観の精粗に由て人生を味わう程度に深浅の別が生ずる。是《ここ》に於て作家は如何《どう》しても其主観を修養しなければならん事になる。
私は行々《ゆくゆく》は大文豪になりたいが一生の願《ねがい》だから、大《おおい》に人生に触れて主観の修養をしなければならん。が、漠然人生に触れるの主観を修養するのと言ってる中《うち》は、意味が能《よ》く分っているようでも、愈《いよいよ》実行する段になると、一寸《ちょっと》まごつく。何から何如《どう》手を着けて好《い》いか分らない。政治や実業は人生の一現象でも有ろうけれど、其様《そん》な物に大した味《あじわい》はない筈である。といって教育でもないし、文壇は始終触れているし、まあ、社会現象が一番面白そうだ。面白いというのは其処に人生の味が濃《こまや》かに味わわれる謂《いい》である。社会現象の中《うち》でも就中《なかんずく》男女の関係が最も面白そうだが、其面白味を十分に味わおうとするには、自分で実験しなければならん。それには一寸《ちょっと》相手に困る。人の恋をするのを傍観するのは、宛《あだか》も人が天麩羅《てんぷら》を喰ってるのを観て其味を想像するようなものではあるけれど、実験の出来ぬ中《うち》は傍観して満足するより外《ほか》仕方がない。が、新聞の記事では輪廓だけで内容が分らない。内容を知るには、恋する男女の間に割込んで、親しく其恋を観察するに限るが、恋する男女が其処らに落《おッ》こちても居ない。すると、当分まず恋の可能《ポッシビリチイ》を持
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