ォ、幽を闡《ひら》く頭はあっても、目前で青二才の私が軽蔑しているのが、先生には終《つい》に見えなかったのだ。

          四十六

 二三日して行って見ると、先生も友と同じ様に、好《い》い処も有るが、もう一息だというような事を言う。嘘《うそ》だ。好《い》い処も何も有るのじゃない。不出来だと直言が出来なくて斯う言ったのだ。先生も目が見えん人だが、私も矢張《やっぱり》自分の事だと目が見えんから、其を真《ま》に受けて、書直して持って行くと、先生が気の毒そうに趣向をも少し変えて見ろと云う。言う通りに趣向をも少し変えて持って行くと、もう先生も仕方がない、不承々々に、是で好《い》いと云う。なに、是で好《い》い事は些《ちっと》も無いのだが、先生は気が弱くて、もう然う然うは突戻し兼たのだ。先生に曰わせると、之を後進に対する同情だという。何の同情の事が有るものか! 少しでも同情が有るなら、頭から叱付けて、文学などに断念させるが好《い》いのだ。是が同情なら、同情は「※[#「者/火」、第3水準1−87−52]え切らん」の別名だ。どうせ思想に囚《とら》われて活機の分らぬ人の為《す》る事だから、お飾《かざり》の思想を一枚|剥《めく》れば、下からいつも此様《こん》な愛想《あいそ》の尽きた物が出て来るに不思議はないが、此方《こっち》も此方《こっち》だ、其様《そん》な事は少しも見えない。本当に是で好《い》い事だと思って、其言葉の尾に縋《すが》って、何処かの雑誌へ周旋をと頼んだ。こんなのを盲目《めくら》の紛《まぐ》れ当《あた》りと謂うのだろう。機を制せられて、先生も仕方がなさそうに是も受込む。私達の応対は活きた人には側《そば》で聴いていられたものであるまい。
 一月程して私の処女作は或雑誌へ出た。初恋が霜《しも》げて物にならなかった事を書いたのだからとて、題は初霜だ。雪江さんの記念に雪江《せっこう》と署名した。先生が筆を加えて私の文は行方不明になった処も大分あったが、兎も角も自分の作が活字になったのが嬉しくて嬉しくて耐《たま》らない。雑誌社から送って来るのを待ちかねて、近所の雑誌店へ駆付けて、買って来て、何遍か繰返して読んでも読んでも読飽《よみあ》かなかった。真面目な人なら、此処らで自分の愚劣を悟る所だろうが、私は反て自惚《うぬぼ》れて、此分で行けば行々《ゆくゆく》は日本の文壇を震駭《しんがい》させる事も出来ようかと思った。
 聊《いささ》かながら稿料も貰えたから、二三の友を招いて、近所の牛肉店で祝宴を開いて、其晩遂に「遊び」に行った。其時案外不愉快であったのは曾て記した通り。皆嬉しさの余りに前後を忘却したので。
 これが私の小説を書く病付《やみつ》きで又「遊び」の皮切であったが、それも是も縁の無い事ではない。私の身では思想の皮一枚|剥《めく》れば、下は文心即淫心だ。だから、些《ちっ》とも不思議はないが、同時に両方に夢中になってる中《うち》に、学校を除籍された。なに、月謝の滞《とどこお》りが原因だったから、復籍するに造作《ぞうさ》はなかったが、私は考えた、「寧《いっ》その事小説家になって了おう。法律を学んで望み通り政治家になれたって、仕方がない。政治家になって可惜《あたら》一生を物質的文明に献げて了うより、小説家になって精神的文明に貢献した方が高尚だ。其方が好《い》い……」どうも仕方がない。活眼を開いて人生の活相を観得なかった私が、例の古手の旧式の思想に捕われて、斯う思ったのは仕方がないが、夫《それ》にしても、同じ思想に捕われるにしても、も少し捕えられ方が有りそうなものだった。物心《ぶっしん》一|如《にょ》と其様《そん》な印度《いんど》臭《くさ》い思想に捕われろではないが、所謂《いわゆる》物質的文明は今世紀の人を支配する精神の発動だと、何故|思《おもわ》れなかったろう? 物質界と表裏して詩人や哲学者が顧《かえり》みぬ精神界が別にあると、何故|思《おもわ》れなかったろう? 人間の意識の表面に浮《うかん》だ別天地の精神界と違って、此精神界は着実で、有力で、吾々の生存に大関係があって、政治家は即ち此精神界を相手に仕事をするものだと、何故思われなかったろう? 此道理をも考えて、其上で去就を決したのなら、真面目な決心とも謂えようが……ああ、しかし、何《ど》の道《みち》思想に捕われては仕方がない。私は思想で、自ら欺いて、其様《そん》な浅墓《あさはか》な事を思っていたが、思想に上らぬ実際の私は全く別の事を思っていた。如何《どん》な事を思っていたかは、私の言う事では分らない、是から追々|為《す》る事で分る。

          四十七

 私は其時始て文士になろうと決心した、トサ後《のち》には人にも話していたけれど、事実でない。私は生来|未《いま》だ曾て決心をした
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