tを看合《みあわ》せると急いで俯向《うつむ》いて了う癖がある。通されたのは二階の六畳の書斎であったが、庭を瞰下《みおろ》すと、庭には樹から樹へ紐《ひも》を渡して襁褓《おしめ》が幕のように列べて乾《ほ》してあって、下座敷《したざしき》で赤児《あかご》のピイピイ泣く声が手に取るように聞える。
私は甚《ひど》く軽蔑の念を起した。殊に庭の襁褓《おしめ》が主人の人格を七分方下げるように思ったが、求むる所があって来たのだから、質樸な風をして、誰《たれ》も言うような世辞を交《ま》ぜて、此人の近作を読んで非常に敬服して教えを乞いに来たようにいうと、先生畳を凝《じっ》と視詰《みつ》めて、あれは咄嗟《とっさ》の作で、書懸《かきかけ》ると親類に不幸が有ったものだから、とかいうような申訳めいた事を言って、言外に、落着いて書いたら、という余意を含める。私は腹の中で下らん奴だと思ったが、感服した顔をして媚《こ》びたような事を言うと、先生|万更《まんざら》厭な心持もせぬと見えて、稍《やや》調子付いて来て、夫から種々《いろいろ》文学上の事に就いて話して呉れた。流石《さすが》は大家と謂われる人程あって、驚くべき博覧で、而も一家の見識を十分に具えていて、ムッツリした人と思いの外、話が面白い。後進の私達は何《ど》の点に於ても敬服しなければならん筈であるが、それでも私は尚お軽蔑の念を去る事が出来なかった。で、終局《しまい》に只ほんの看《み》て貰えば好《い》いように言って、雑誌へ周旋を頼む事は噫《おくび》にも出さないで、持って行った短篇を置いて、下宿へ帰って来てから、又下らん奴だと思った。
四十五
某大家は兎に角大家だ。私は青二才だ。何故私は此人を軽蔑したのか? 襟垢《えりあか》の附いた着物を着ていたとて、庭に襁褓《むつき》が乾《ほ》してあったとて、平生《へいぜい》名利《めいり》の外《ほか》に超然たるを高しとする私の眼中に、貧富の差は無い筈である。が、私は実際先生の貧乏臭いのを看て、軽蔑の念を起したのだ。矛盾だ。矛盾ではあるが、矛盾が私の一生だ。
医者の不養生という。平生思想を性命として、思想に役せられている人に限って、思想が薄弱で正可《まさか》の時の用に立たない。私の思想が矢張《やっぱ》り其だった。
けれど、思想々々と大層らしく言うけれど、私の思想が一体何んだ? 大抵は平生親しむ書巻の中《うち》から拾って来た、謂わば古手の思想だ。此|蒼褪《あおざ》めた生気のない古手の思想が、意識の表面で凝《こ》って髣髴《ほうふつ》として別天地を拓いている処を見ると、理想だ、人生観だというような種々の観念が美しい空想の色彩を帯びて其中《そのうち》に浮游していて、腹が減《す》いた、銭が欲しいという現実界に比べれば、※[#「しんにゅう+向」、第3水準1−92−55]《はるか》に美しいように見える。浮気な不真面目な私は直ぐ好《い》い処を看附けたという気になって、此別天地へ入り込んで、其処から現実界を眺めて罵しっていたのだ。我存在の中心を古手の思想に託して、夫《それ》で自《みずか》ら高しとしていたのだ。が、私の別天地は譬《たと》えば塗盆《ぬりぼん》へ吹懸《ふきか》けた息気《いき》のような物だ。現実界に触れて実感を得《え》ると、他愛もなく剥《は》げて了う、剥《は》げて木地《きじ》が露《あら》われる。古手の思想は木地を飾っても、木地を蝕する力に乏しい。木地に食入って吾を磨くのは実感だのに、私は第一現実を軽蔑していたから、その実感を得《え》る場合が少く、偶《たまたま》得た実感も其取扱を誤っていたから、木地の吾を磨く足《たし》にならなかった。従って何程《なにほど》古手の思想を積んで見ても、木地の吾は矢張《やっぱり》故《もと》のふやけた、秩序《だらし》のない、陋劣《ろうれつ》な吾であった。
こうして別天地と木地の吾とは別々であったから、別天地に遊んでいる時と、吾に戻った時とは、勢い矛盾する。言行は始終一致しない。某大家に対しても、未だ会わぬ中《うち》は多少の敬意を有《も》っていたけれど、一たび其人の土気色した顔が見え、襟垢《えりあか》が見え、襁褓《むつき》が見えて想像中の人が現実の人となると、木地の吾が、貧乏だから下らんと、別天地では流行せぬ論法で論断して之を軽蔑して了ったのだ。
唯当時私はまだ若かったから、陋劣《ろうれつ》な吾にしても、私の吾には尚お多少の活気が有って、多少の活機を捉え得た。文壇の大家になると、古手の思想が凝固《こりかた》まって、其人の吾は之に圧倒せられ、纔《わずか》に残喘《ざんぜん》を保っているようなのが幾らもある。斯ういう人が、現実に触れると、気の毒な程他愛の無い人になる。某大家が即ち其であった。だから、人生を論じ、自然を説いて、微を拆《ひら》
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