ォを補っていた。文学ならば人聴《ひとぎき》も好《い》い。これなら左程|銭《ぜに》も入《い》らぬ。私は文学を女の代りにして、文学を以って堕落を潤色《じゅんしょく》していたのだ。
 私の謂う文学は無論美文学の事だ、殊に小説だ。小説は一体|如何《どう》いうものだか、知らん、唯私の眼に映ずる小説は人間の堕落を潤色《じゅんしょく》するものだ。通人の話に、道楽の初は唯|色《いろ》を漁《ぎょ》する、膏肓《こうこう》に入《い》ると、段々贅沢になって、唯|色《いろ》を漁《ぎょ》するのでは面白くなくなる、惚れたとか腫《は》れたとか、情合《じょうあい》で異性と絡《から》んで、唯の漁色《ぎょしょく》に趣《おもむき》を添えたくなると云う。其処だ、其処が即ち文学の需要の起る所以《ゆえん》だ。少くも私は然うであった。で、此目的で、最初は小狐《おぎつね》に居た頃喰付いた人情本を引続き耽読《たんどく》してみたが、数を累《かさ》ねると、段々贅沢になって、もう人情本も鼻に附く。同じ性慾の発展の描写でも、も少し趣味のある描写を味わってみたい。そこで、種々《いろいろ》と小説本を渉猟《しょうりょう》して、終《つい》に当代の大家の作に及んで見ると、流石《さすが》は明治の小説家だ、性慾の発展の描写が巧《たくみ》に人生観などで潤色《じゅんしょく》されてあって、趣味がある、面白い。斯ういう順序で私の想像で堕落する病《やまい》は益《ますます》膏肓《こうこう》に入《い》って、終《つい》には西洋へ迄手を出して、ヂッケンスだ、サッカレーだ、ゾラだ、ユゴーだ、ツルゲーネフだ、トルストイだ、という人達の手を藉《か》りて、人並にしていれば、中性のインヂフェレントの性慾を無理に不自然な病的の物にして、クラフトエービングやフォレールの著書中に散見するような色情狂に想像で成済《なりす》まして、而《そう》して独り高尚がっていた。
 いや、独り高尚がっていたのでない。それには同気相求めて友が幾人《いくたり》も出来た。同県人で予備門から後《のち》文科へ入《い》った男が有ったが、私は殊に其感化を受けた。ああ、皆自分が悪かったので、人を怨んでは済まないが、私は今でも此男に逢うと、何とも言えぬ厭な心持になる。儘になるなら刺違《さしちが》えて死で了いたく思う事もある。

          四十三

 私が感化を受けた友というのは私より一つ二つ年上であった。文学が専門だから、文学書は私より余計読でいたという丈で、何でもない事だが、それを私は大層偉いように思っていた。まだファウストを読まぬ時、ファウストの話を聴《きか》される。なに、友は愚にも附《つか》ん事を言っているのだが、其愚にも附かん事を、人生だ、智慾だ、煩悶だ、肉だ、堕落だ、解脱《げだつ》だ、というような意味の有り気な言葉で勿体を附て話されると、何だか難有《ありがた》くなって来て、之を語る友は偉いと思った。こんな馬鹿気た話はない。友は唯私より少し早くファウストという古本《ふるほん》を読《よん》だ丈の事だ。読んで分った所で、ファウストが何程《どれほど》の物だ? 技巧の妙を除いたら、果してどれ程の価値がある? 況《いわん》や友はあやふやな語学の力で分らん処を飛ばし飛ばし読んだのだ。読んで幼稚な頭で面白いと感じた丈だ、それも聞怯《ききおじ》して、従頭《てんから》面白いに極《き》めて掛って、半分は雷同で面白いと感じた丈だ。読んで十分に味わい得た所で、どうせ人間の作った物だ、左程の物でもあるまいに、それを此様《こん》な読方をして、難有《ありがた》がって、偶《たまたま》之を読まぬ者を何程《どれほど》劣等の人間かのように見下《みくだ》し、得意になって語る友も友なら、其を聴いて敬服する私も私だ。心ある人から観たら、嘸《さ》ぞ苦々しく思われたろう。
 此友から私は文学の難有《ありがた》い訳を種々《いろいろ》と説き聴かされた。今ではもう大抵忘れて了ったけれど、何でも文学は真理に新しい形を賦《ふ》して其生命を直接に具体的に再現するものだ、とか聴かされて、感服した。自然の真相は普通人に分らぬ、詩人が其主観を透《とお》して描いて示すに及んで、始めて普通人にも朧気《おぼろげ》に分って人間の宝となる、とか聴かされて、又感服した。恋には人間の真髄が動く、とか聴かされて、又感服した。其他《そのた》まだ種々《いろいろ》聴かされて一々感服したが、此様《こん》な事は皆|愚言《たわごと》だ、世迷言《よまいごと》だ。空想に生命を託して人生を傍観するばかりで、古本と首引《くびぴき》して瞑想するばかりで、人生に生命を託して人生と共に浮沈上下《ふちんじょうか》せんでも、人生の活機に触れんでも、活眼を以て活勢を機微の間《あいだ》に察し得んでも、如何《どう》かして人生が分るものとしても、友のいうような其様《そ
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