フ前に敷いて、其処を退《の》くと、雪江さんは礼を言いながら、入替《いりか》わって机の前に坐って、
「遊《あす》んでらっしゃいな。」
と私の面《かお》を瞻上《みあ》げた。ええとか、何とかいって踟※[#「足へん+厨」、第3水準1−92−39]《もじもじ》している私の姿を、雪江さんはジロジロ視ていたが、
「まあ、貴方《あなた》は此地《こっち》へ来てから、余程《よっぽど》大きくなったのねえ。今じゃ私《あたし》とは屹度《きっと》一尺から違ってよ。」
「まさか……」
「あら……屹度《きっと》違うわ。一寸《ちょッと》然うしてらッしゃいよ……」
といいながら、衝《つい》と起《た》ったから、何を為《す》るのかと思ったら、ツカツカと私の前へ来て直《ひた》と向合った。前髪が顋《あご》に触れそうだ。紛《ぷん》と好《い》い匂《におい》が鼻を衝く。
「ね、ほら、一尺は違うでしょう?」と愛度気《あどけ》ない白い面《かお》が何気なく下から瞻上《みあ》げる。
私はわなわなと震い出した。目が見えなくなった。胸の鼓動は脳へまで響く。息が逸《はず》んで、足が竦《すく》んで、もう凝《じッ》として居られない。抱付くか、逃出すか、二つ一つだ。で、私は後《のち》の方針を執《と》って、物をも言わず卒然《いきなり》雪江さんの部屋を逃出して了った……
四十
何故|彼時《あのとき》私は雪江さんの部屋を逃出したのだというと、非常に怕《おそ》ろしかったからだ。何が怕《おそ》ろしかったのか分らないが、唯何がなしに非常に怕《おそ》ろしかったのだ。
生死の間《あいだ》に一線を劃して、人は之を越えるのを畏《おそ》れる。必ずしも死を忌《い》むからではない。死は止むを得ぬと観念しても、唯此一線が怕《おそ》ろしくて越えられんのだ。私の逃出したのが矢張《やッぱり》それだ。女を知らぬ前と知った後《のち》との分界線を俗に皮切りという。私は性慾に駆られて此線の手前迄来て、これさえ越えれば望む所の性慾の満足を得られると思いながら、此線が怕《おそ》ろしくて越えられなかったのだ。越えたくなくて越えなかったのではなくて、越えたくても越えられなかったのだ。其後《そのご》幾年《いくねん》か経《た》って再び之を越えんとした時にも矢張《やッぱり》怕《おそ》ろしかったが、其時は酒の力を藉《か》りて、半狂気《はんきちがい》になって、漸く此|怕《おそ》ろしい線を踏越した。踏越してから酔が醒めると何とも言えぬ厭な心持になったから、又酒の力を藉《か》りて強いて纔《わずか》に其不愉快を忘れていた。此様《こん》な厭な想いをして迄も性慾を満足させたかったのだ。是は相手が正当でなかったから、即ち売女《ばいじょ》であったからかというに、そうでない。相手は正当の新婦と相知る場合にも、人は大抵皆然うだと云う。殊に婦人が然うだという。何故だろう?
之と縁のある事で今一つ分らぬ事がある。人は皆|隠《かく》れてエデンの果《このみ》を食《くら》って、人前では是を語ることさえ恥《はず》る。私の様に斯うして之を筆にして憚らぬのは余程力むから出来るのだ。何故だろう? 人に言われんような事なら、為《せ》んが好《い》いじゃないか? 敢てするなら、誰《たれ》の前も憚らず言うが好《い》いじゃないか? 敢てしながら恥《はず》るとは矛盾でないか? 矛盾だけれど、矛盾と思う者も無いではないか? 如何《どう》いう訳だ?
之を霊肉の衝突というか? しからば、霊肉一致したら、如何《どう》なる? 男女相知るのを怕《おそ》ろしいとも恥かしいとも思わなくなるのか? 畜生《ちくしょう》と同じ心持になるのか?
トルストイは北方の哲人だと云う。此哲人は如何《どん》な事を言っている。クロイツェル、ソナタの跋に、理想の完全に実行し得べきは真の理想でない。完全に実行し得られねばこそ理想だ。不犯《ふぼん》は基督教《キリストきょう》の理想である。故に完全に実行の出来ぬは止むを得ぬ、唯|基督教徒《キリストきょうと》は之を理想として終生追求すべきである、と言って、世間の夫婦には成るべく兄妹《けいまい》の如く暮らせと勧めている。
何の事だ? 些《ちッ》とも分らん。完全を求めて得られんなら、悶死すべきでないか? 不犯《ふぼん》が理想で、女房を貰って、子を生ませていたら、普通の堕落に輪を掛た堕落だ。加之《しか》も一旦貰った女房は去るなと言うでないか? 女房を持つのが堕落なら、何故一念発起して赤の他人になッ了《ちま》えといわぬ。一生離れるなとは如何《どう》いう理由《わけ》だ? 分らんじゃないか?
今食う米が無くて、ひもじい腹を抱《かかえ》て考え込む私達だ。そんな伊勢屋《いせや》の隠居が心学に凝り固まったような、そんな暢気《のんき》な事を言って生きちゃいられん!
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