囀x|潜《くぐ》りを潜る所で、まず黒の山高帽がヌッと入って、続いて縞のズボンに靴の先がチラリと見えたかと思うと、渋紙色した髭面《ひげつら》が勃然《むッくり》仰向《あおむ》いたから、急いで首を引込《ひッこ》めたけれど、間に合わなかった。見附かッちゃッた。
お帰り遊ばせお帰り遊ばせ、と口々に喋々《ちょうちょう》しく言う声が玄関でした。奥様――も何だか変だ、雪江さんの阿母《かあ》さんの声で何か言うと、ふう、そうか、ふうふう、という声は主人に違いない。私の話に違いない。
悪い事をした、窓からなんぞ覗くんじゃなかったと、閉口している所へ下女が呼びに来て、愈《いよいよ》閉口したが、仕方がない。どうせ志を立てて郷関を出た男児だ、人間到る処で極《きま》りの悪い想いする、と腹を据えて奥へ行って見ると、もう帰った人は和服に着易《きか》えて、曾て雪江さんの阿母《かあ》さんが占領していた厚蒲団に坐っている。私は誰でも逢いつけぬ人に逢うと、屹度《きっと》真紅《まっか》になる癖がある。で、此時も真紅《まっか》になって、一度国で逢った人だから、久濶《しばらく》といって例の通り倒さになると、先方は心持首を動かして、若し声に腰が有るなら、その腰と思う辺《あたり》に力を入れて、「はい」という。父も母も宜しく申しましたというと、又「はい」という。何卒《どうぞ》何分願いますというと、一段声を張揚《はりあ》げて、「はアい」という。
三十
晩餐になって、其晩だけは私も奥で馳走になった。花模様の丸ボヤの洋灯《ランプ》の下《もと》で、隅ではあったが、皆と一つ食卓に対《むか》い、若い雪江さんの罪の無い話を聴きながら、阿父《とう》さん阿母《かあ》さんの莞爾々々《にこにこ》した面《かお》を見て、賑《にぎや》かに食事して、私も何だか嬉しかったが……
軈《やが》て食事が済むと、阿父《とう》さんが又主人になって、私に対《むか》って徐々《そろそろ》小むずかしい話を始めた。何でも物価|高直《こうじき》の折柄《おりから》、私の入《いれ》る食料では到底《とて》も賄《まかな》い切れぬけれど、外ならぬ阿父《おとっ》さんの達《たっ》ての頼みであるに因って、不足の処は自分の方で如何《どう》にかする決心で、謂わば義侠心で引受けたのであれば、他《ほか》の学資の十分な書生のように、悠長な考えでいてはならぬ、何でも苦
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