ネお》すと、雪江さんが、矢張《やっぱり》窓の下の方が好《い》いという。で、矢張《やっぱり》窓の下の方へ据えた。
 早速私が書物を出して机の側《そば》に積むのを見て、雪江さんが、
「本箱も無かったわねえ。私《あたし》ン所《とこ》に|二つ《ふたツ》有るけど、皆《みンな》塞《ふさ》がってて、貸して上げられないわ。」
「なに、買って来るから、好《い》いです。」
「そんならね、晩に勧工場《かんこうば》で買ってらッしゃいな。」
「え?」と私は聞直した、――勧工場《かんこうば》というものは其時分まだ国には無かったから。
「小川町《おがわまち》の勧工場《かんこうば》で。」
「勧工場《かんこうば》ッて?」
「あら、勧工場《かんこうば》を知らないの? まあ! ……」
 と雪江さんは吃驚《びッくり》した面《かお》をして、突然破裂したように笑い出した。娘というものは壺口《つぼくち》をして、気取って、オホホと笑うものとばかり思ってる人は訂正なさい。雪江さんは娘だけれど、口を一杯に開《あ》いて、アハハアハハと笑うのだ。初め一寸《ちょっと》仰向《あおむ》いて笑って、それから俯向《うつむ》いて、身を揉《も》んで、胸を叩いて苦しがって笑うのだ。私は真紅《まっか》になって黙っていた。
 先刻《さっき》取次に出た女は其後《そのご》漸く下女と感付いたが、此時障子の蔭からヒョコリお亀のような笑顔《えがお》を出して、
「何を其様《そんな》に笑ってらッしゃるの?」
「だって……アハハハハ! ……古屋さんが……アハハハ! ……」
「あら、一寸《ちょっと》、此方《このかた》が如何《どう》かなすったの?」
 無礼者奴《ぶれいものめ》がズカズカ部屋へ入って来た、而《そう》して雪江さんの笑いが止らないで、些《ちっ》とも要領を得ない癖に、訳も分らずに、一緒になってゲラゲラ笑う。
 其時ガラガラという車の音が門前に止って、ガラッと門が開《あ》くと同時に、大きな声で、威勢よく、
「お帰りッ!」
 形勢は頓《とみ》に一変した。下女は急に真面目になって、雪江さんを棄てて置いて、急いで出て行く。
 雪江さんもまだ可笑《おかし》がりながら泪《なみだ》を拭《ふ》き拭き、それでも大《おおい》に落着いて後《あと》から出て行く。
 主人の帰りとは私にも覚《さと》れたから、急いで起《た》ち上って……窃《こっ》そり窓から覗いて見た。
 帰った人は
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