B母は又|彼方《あちら》向いて了ったのだ。
「じゃ、木村さん処《とこ》の前で殺されたんですね?」と母の声がいう。
「へえ」、という者がある。機械的に其方へ面《かお》を向けると、腰障子の蔭に、旧い馴染《なじみ》の炭屋の爺やの、小鼻の脇に大きな黒子《ほくろ》のある、皺《しわ》だらけの面《かお》が見えて、前歯の二本脱けた間から、チョコチョコ舌を出して饒舌《しゃべ》っている声が聞える。「丁度あの木村さんの前ン処《とこ》なんで。手前《てまえ》は初めは何だと思いました。棒を背後《うしろ》へ匿《かく》してましたから、遠くで見たんじゃ、ほら、分りませんや。一寸《ちょいと》見ると何だか土方のような奴で、其奴《そいつ》がこう手を背後《うしろ》へ廻しましてな、お宅の犬の寝ている側《そば》へ寄ってくから、はてな、何をするンだろう、と思って見ていますと、彼様《あん》な人懐《ひとなつ》っこい犬だから、其奴《そいつ》の面《かお》を見て、何にも知らずに尻尾を掉《ふ》ってましたよ。可哀《かわい》そうに! 普通《なみ》の者なら、何ぼ何でも其様《そん》なにされちゃ、手を下《おろ》せた訳合《わけあい》のもんじゃございません、――ね、今日《こんにち》人情としましても。それを、貴女《あなた》……いや、どうも、ああいう手合に逢っちゃ敵《かな》いませんて、卒然《いきなり》匿《かく》してた棒を取直して、おやッと思う間に、ポンと一つ鼻面を打《ぶ》ちました。そうするとな、お宅のは勃然《むっくり》起きましてな、キリキリと二三遍廻って、パタリと倒れると、仰向きになってこう四足《よつあし》を突張りましてな、尻尾でバタバタ地面《ちべた》を叩いたのは、あれは大方|苦《くるし》がったんでしょうが、傍《はた》で見ていりゃ何だか喜んで尻尾を掉《ふ》ったようで、妙な塩梅《あんばい》しきでしたがな、其処を、貴女《あなた》、またポカポカと三つ四つ咽喉《のど》ン処《とこ》を打《ぶ》ちますとな、もう其切《それっき》りで、ギャッともスウとも声を立て得ないで、貴女《あなた》……」
私はもう後《あと》は聴いていなかった。誰《たれ》を憚《はばか》る必要もないのに、窃《そっ》と目立たぬように後方《うしろ》へ退《さが》って、狐鼠々々《こそこそ》と奥へ引込《ひっこ》んだ。ベタリと机の前へ坐った。キリキリと二三遍廻ったという今聞いた話が胸に浮ぶと、そのキリキ
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