セ――作さんが着いた、作さんが、と喚《わめ》く。何処からか母が駈出して来たから、私が卒然《いきなり》、「阿父《おとっ》さんは? ……」と如何《どう》やら人の声のような皺嗄声《しゃがれごえ》で聞くと、母は妙な面《かお》をしたが、「到頭|不好《いけなか》ったよ……」というより早く泣き出した。私はハッと思うと、気が遠くなって、茫然として母が袖を顔に当《あて》て泣くのを視ていたが、ふと何だか胸が一杯になって泣こうとしたら、「まあ、彼方《あッち》へお出でなさい」、と誰だか袖を引張るから、見ると従弟《いとこ》だ。何処へ何しに行《い》くのだか、分っているような、分っていないような、変な塩梅《あんばい》だったが、私は何だか分ってる積《つもり》で、従弟《いとこ》の跟《あと》に従《つ》いて行くと、人が大勢車座になっている明かるい座敷へ来た。と、急に私は何か母に聞きたい事が有るのを忘れていたような気持がして、母は如何《どう》したろうと後《うしろ》を振向く途端に、「おお作か」、という声が俄《にわか》に寂然《しん》となった座敷の中《うち》に聞えたから、又|此方《こッち》を振向くと、其処に伯父が居るようだ。夫から私は其処へ坐って、何でも漫《やたら》に其処に居る人達に辞儀をしたようだったが、其中《そのうち》に如何《どう》いう訳だったか、伯父の側《そば》へ行く事になって、側《そば》へ行くと、伯父が「阿父《おとっ》さんも到頭|此様《こんな》になられた」、といいながら、側《そば》に臥《ね》ている人の面《かお》に掛けた白い物を取除《とりの》けたから、見ると、臥《ね》て居る人は父で、何だか目を瞑《ねむ》っている。私は其面《そのかお》を凝《じっ》と視ていた。すると、何時《いつ》の間にか母が側《そば》へ来ていて、泣声で、「息を引取る迄ね、お前に逢いたがりなすってね……」というのが聞えた。私はふッと目が覚めた、目が覚めたような心持がした。ああ、父は死んでいる……つい其処に死んでいる……骨と皮ばかりの痩果てた其死顔がつい目の前に見える。之を見ると、私は卒然として、「ああ済《すま》なかった……」と思った。此刹那に理窟はない、非凡も、平凡も、何もない。文士という肩書の無い白地《しろじ》の尋常《ただ》の人間に戻り、ああ、済《すま》なかった、という一念になり、我を忘れ、世間を忘れて、私は……私は遂に泣いた……

    
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