蝠aで死にかかって居たのに……
六十
翌朝《あくるあさ》は夙《はや》く発《た》つ積《つもり》だったが、発《た》てなくなった。尾籠《びろう》な事には自《おのずか》ら尾籠《びろう》な法則が有るから、既に一種の関係が成立った以上は、女に多少の手当をして行《い》かなきゃならん――と、さ、私は思わざるを得なかった。見栄坊《みえぼう》だから、金が無くても金の有る風をして、紙入を叩いて遣《や》って了うと、もう汽車賃も残らない。なに、父はまだ危篤というのじゃなし、一時間や二時間|発《た》つのが後れたって仔細は無かろうと、自分で勝手な理窟を附けて、女には内々で朝から金策に歩いたが、出来なかった。昼前に一寸《ちょっと》下宿へ帰ると、留守に国から電報が着いていた。胸を轟かして、狼狽《あわ》てて封を切って見ると、「父危篤|直《すぐ》戻れ」だ。之を読むと私はわなわなと震え出した。卒然《いきなり》下宿を飛出して、血眼《ちまなこ》になって奔走して、辛《かろ》うじて聊《いささ》かの金を手に入れたから、下宿へも帰らず、其足で直ぐ東京を発《た》って、汽車の幾時間を藻掻《もが》き通して、国へ着いたのは其晩八時頃であった。
停車場《ステーション》で車を※[#「にんべん+就」、第3水準1−14−40]《やと》って家《うち》へ急ぐ途中も、何だか気が燥《いら》って、何事も落着いて考えられなかったが、片々《きれぎれ》の思想が頭の中で狂い廻《まわ》る中でも、唯息のある中《うち》に一目父に逢いたい逢いたいと其ばかりを祈っていた。時々ふッと既《も》う駄目だろうと思うと、錐《きり》でも刺されたように、急に胸がキリキリと痛む。何とも言えず苦しい。馴染《なじみ》の町々を通っても、何処を如何《どう》車が走るのか分らない。唯車上で身を揉んで、無暗《むやみ》に車夫を急立《せきた》てた。車夫が何だか腹を立てて言ったが、何を言っているのか、分らない。唯|無暗《むやみ》に急立《せきた》てるばかりだ。
漸くの想《おもい》で家《うち》へ着くと、狼狽《あわ》てて車を飛降りて、車賃も払ったか、払わなかったか、卒然《いきなり》門内へ駆込んで格子戸を引明けると、パッと灯火《あかり》が射して、其光の中《うち》に人影がチラチラと見え、家内《うち》は何だか取込んでいて話声が譟然《がやがや》と聞える中で、誰だか作さん――私の名
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