eしむ書巻の中《うち》から拾って来た、謂わば古手の思想だ。此|蒼褪《あおざ》めた生気のない古手の思想が、意識の表面で凝《こ》って髣髴《ほうふつ》として別天地を拓いている処を見ると、理想だ、人生観だというような種々の観念が美しい空想の色彩を帯びて其中《そのうち》に浮游していて、腹が減《す》いた、銭が欲しいという現実界に比べれば、※[#「しんにゅう+向」、第3水準1−92−55]《はるか》に美しいように見える。浮気な不真面目な私は直ぐ好《い》い処を看附けたという気になって、此別天地へ入り込んで、其処から現実界を眺めて罵しっていたのだ。我存在の中心を古手の思想に託して、夫《それ》で自《みずか》ら高しとしていたのだ。が、私の別天地は譬《たと》えば塗盆《ぬりぼん》へ吹懸《ふきか》けた息気《いき》のような物だ。現実界に触れて実感を得《え》ると、他愛もなく剥《は》げて了う、剥《は》げて木地《きじ》が露《あら》われる。古手の思想は木地を飾っても、木地を蝕する力に乏しい。木地に食入って吾を磨くのは実感だのに、私は第一現実を軽蔑していたから、その実感を得《え》る場合が少く、偶《たまたま》得た実感も其取扱を誤っていたから、木地の吾を磨く足《たし》にならなかった。従って何程《なにほど》古手の思想を積んで見ても、木地の吾は矢張《やっぱり》故《もと》のふやけた、秩序《だらし》のない、陋劣《ろうれつ》な吾であった。
 こうして別天地と木地の吾とは別々であったから、別天地に遊んでいる時と、吾に戻った時とは、勢い矛盾する。言行は始終一致しない。某大家に対しても、未だ会わぬ中《うち》は多少の敬意を有《も》っていたけれど、一たび其人の土気色した顔が見え、襟垢《えりあか》が見え、襁褓《むつき》が見えて想像中の人が現実の人となると、木地の吾が、貧乏だから下らんと、別天地では流行せぬ論法で論断して之を軽蔑して了ったのだ。
 唯当時私はまだ若かったから、陋劣《ろうれつ》な吾にしても、私の吾には尚お多少の活気が有って、多少の活機を捉え得た。文壇の大家になると、古手の思想が凝固《こりかた》まって、其人の吾は之に圧倒せられ、纔《わずか》に残喘《ざんぜん》を保っているようなのが幾らもある。斯ういう人が、現実に触れると、気の毒な程他愛の無い人になる。某大家が即ち其であった。だから、人生を論じ、自然を説いて、微を拆《ひら》
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