爾《にっこり》したばかりで、また彼方《あちら》向いて、そして編物に取掛ッた。文三は酒に酔った心地、どう仕ようという方角もなく、只|茫然《ぼうぜん》として殆ど無想の境に彷徨《さまよ》ッているうちに、ふと心附いた、は今日お政が留守の事。またと無い上首尾。思い切って物を言ってみようか……と思い掛けてまたそれと思い定めぬうちに、下女部屋の紙障《しょうじ》がさらりと開く、その音を聞くと文三は我にも無く突《つ》と奥座敷へ入ッてしまった――我にも無く、殆ど見られては不可《わるい》とも思わずして。奥座敷へ入ッて聞いていると、やがてお鍋がお勢の側《そば》まで来て、ちょいと立留ッた光景《けはい》で「お待遠うさま」という声が聞えた。お勢は返答をせず、只何か口疾《くちばや》に囁《ささや》いた様子で、忍音《しのびね》に笑う声が漏れて聞えると、お鍋の調子|外《はずれ》の声で「ほんとに内海《うつ》……」「しッ!……まだ其所《そこ》に」と小声ながら聞取れるほどに「居るんだよ」。お鍋も小声になりて「ほんとう?」「ほんとうだよ」
こう成《なっ》て見ると、もう潜《ひそまッ》ているも何となく極《きまり》が悪くなって来たから、文三が素知らぬ顔をしてふッと奥座敷を出る、その顔をお鍋は不思議そうに眺《なが》めながら、小腰を屈《ひく》めて「ちょいとお湯へ」と云ッてから、ふと何か思い出して、肝《きも》を潰《つぶ》した顔をして周章《あわて》て、「それから、あの、若し御新造《ごしんぞ》さまがお帰《かえん》なすって御膳《ごぜん》を召上《めしやが》ると仰《おッしゃ》ッたら、お膳立をしてあの戸棚《とだな》へ入れときましたから、どうぞ……お嬢さま、もう直《すぐ》宜《よ》うござんすか? それじゃア行ってまいります」。お勢は笑い出しそうな眼元でじろり文三の顔を掠《かす》めながら、手ばしこく手で持っていた編物を奥座敷へ投入れ、何やらお鍋に云って笑いながら、面白そうに打連れて出て行った。主従とは云いながら、同程《おなじほど》の年頃ゆえ、双方とも心持は朋友《ほうゆう》で、尤《もっと》もこれは近頃こうなッたので、以前はお勢の心が高ぶっていたから、下女などには容易に言葉をもかけなかった。
出て行くお勢の後姿を目送《みおく》って、文三は莞爾《にっこり》した。どうしてこう様子が渝《かわ》ったのか、それを疑っているに遑《いとま》なく、ただ何となく心嬉しくなって、莞爾《にっこり》した。それからは例の妄想《もうそう》が勃然《ぼつぜん》と首を擡《もた》げて抑えても抑え切れぬようになり、種々《さまざま》の取留《とりとめ》も無い事が続々胸に浮んで、遂には総《すべ》てこの頃の事は皆文三の疑心から出た暗鬼で、実際はさして心配する程の事でも無かったかとまで思い込んだ。が、また心を取直して考えてみれば、故無くして文三を辱《はずかし》めたといい、母親に忤《さから》いながら、何時しかそのいうなりに成ったといい、それほどまで親かった昇と俄に疏々《うとうと》しくなったといい、――どうも常事《ただごと》でなくも思われる。と思えば、喜んで宜いものか、悲んで宜いものか、殆ど我にも胡乱《うろん》になって来たので、あたかも遠方から撩《こそぐ》る真似をされたように、思い切っては笑う事も出来ず、泣く事も出来ず、快と不快との間に心を迷せながら、暫く縁側を往きつ戻りつしていた。が、とにかく物を云ったら、聞いていそうゆえ、今にも帰ッて来たら、今一度運を試して聴かれたらその通り、若し聴かれん時にはその時こそ断然叔父の家を辞し去ろうと、遂にこう決心して、そして一《ひ》と先《まず》二階へ戻った。
底本:「浮雲」新潮文庫、新潮社
1951(昭和26)年12月15日初版発行
1997(平成9)年4月10日81刷
初出:「新編浮雲」金港堂
1887(明治20)年6月発行
※「※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]」と「匆」、「※[#「者」の「日」に代えて「至」、第4水準2−85−3]」と「耋」、「掻頭」と「挿頭」、「座舗」と「坐舗」の混在は底本通りです。
入力:佐野暢之、任天堂
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年12月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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