ちょうど文三の真向うに八字の浪を額に寄せ、忙《いそがわ》しく眼をしばたたきながら間断《たゆみ》もなく算盤を弾《はじ》いていた年配五十前後の老人が、不図手を止《とど》めて珠へ指ざしをしながら、「エー六五七十の二……でもなしとエー六五」ト天下の安危この一挙に在りと言ッた様な、さも心配そうな顔を振揚げて、その癖口をアンゴリ開いて、眼鏡《めがね》越しにジット文三の顔を見守《みつ》め、「ウー八十の二か」ト一越《いちおつ》調子高な声を振立ててまた一心不乱に弾き出す。余りの可笑《おか》しさに堪えかねて、文三は覚えずも微笑したが、考えて見れば笑う我と笑われる人と余り懸隔のない身の上。アア曾《かつ》て身の油に根気の心《しん》を浸し、眠い眼を睡《ね》ずして得た学力《がくりき》を、こんなはかない馬鹿気た事に使うのかと、思えば悲しく情なく、我になくホット太息《といき》を吐《つ》いて、暫らくは唯|茫然《ぼうぜん》としてつまらぬ者でいたが、イヤイヤこれではならぬと心を取直して、その日より事務に取懸《とりかく》る。当座四五日は例の老人の顔を見る毎に嘆息|而已《のみ》していたが、それも向う境界《きょうがい》に移る習い
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