か、ウー」ト御意遊ばすと、昇も「左様で御座います、チト妙な貌をしております」ト申上げ、夫人が傍《かたわら》から「それでも狆はこんなに貌のしゃくんだ方が好いのだと申ます」ト仰《おっ》しゃると、昇も「成程|夫人《おくさま》の仰《おおせ》の通り狆はこんなに貌のしゃくんだ方が好いのだと申ます」ト申上げて、御愛嬌にチョイト狆の頭を撫《な》でて見たとか。しかし永い間には取外《とりはず》しも有ると見えて、曾て何かの事で些《すこ》しばかり課長殿の御機嫌を損ねた時は、昇はその当坐|一両日《いちりょうにち》の間、胸が閉塞《つかえ》て食事が進まなかッたとかいうが、程なく夫人のお癪《しゃく》から揉《もみ》やわらげて、殿さまの御肝癖も療治し、果は自分の胸の痞《つかえ》も押さげたという、なかなか小腕のきく男で。
下宿が眼と鼻の間の所為《せい》か、昇は屡々《しばしば》文三の所へ遊びに来る。お勢が帰宅してからは、一段足繁くなって、三日にあげず遊びに来る。初とは違い、近頃は文三に対しては気に障わる事|而已《のみ》を言散らすか、さもなければ同僚の非を数えて「乃公《おれ》は」との自負自讃、「人間|地道《じみち》に事をするようじゃ役に立たぬ」などと勝手な熱を吐散らすが、それは邂逅《たまさか》の事で、大方は下坐敷でお政を相手に無駄《むだ》口を叩《たた》き、或る時は花合せとかいうものを手中に弄《ろう》して、如何《いかが》な真似をした上句《あげく》、寿司《すし》などを取寄せて奢散《おごりち》らす。勿論《もちろん》お政には殊《こと》の外気に入ッてチヤホヤされる、気に入り過ぎはしないかと岡焼をする者も有るが、まさか四十|面《づら》をさげて……お勢には……シッ跫音《あしおと》がする、昇ではないか……当ッた。
「トキニ内海はどうも飛だ事で、実に気の毒な、今も往《いっ》て慰めて来たが塞切《ふさぎき》ッている」
「放擲《うっちゃっ》てお置きなさいヨ。身から出た錆《さび》だもの、些《ちっ》とは塞ぐも好《いい》のサ」
「そう言えばそんなような者だが、しかし何しろ気の毒だ。こういう事になろうと疾《はや》くから知ていたらまたどうにか仕様も有たろうけれども、何しても……」
「何とか言ッてましたろうネ」
「何を」
「私の事をサ」
「イヤ何とも」
「フム貴君《あなた》も頼もしくないネ、あんな者《もん》を朋友《ともだち》にして同類《ぐる》にお成んなさる」
「同類《ぐる》にも何にも成りゃアしないが、真実《ほんとう》に」
「そう」
ト談話《はなし》の内に茶を入れ、地袋の菓子を取出して昇に侑《すす》め、またお鍋を以《もっ》てお勢を召《よ》ばせる。何時《いつ》もならば文三にもと言うところを今日は八|分《ぶ》したゆえ、お鍋が不審に思い、「お二階へは」ト尋ねると、「ナニ茶がカッ食《くら》いたきゃア……言《いわ》ないでも宜《いい》ヨ」ト答えた。これを名《なづ》けて Woman's《ウーマンス》 revenge《レヴェンジ》(婦人の復讐《ふくしゅう》)という。
「どうしたんです、鬩《いじ》り合いでもしたのかネ」
「鬩合《いじりあ》いなら宜がいじめられたの、文三にいじめられたの……」
「それはまたどうした理由《わけ》で」
「マア本田さん、聞ておくんなさい、こうなんですヨ」
ト昨日《きのう》文三にいじめられた事を、おまけにおまけを附着《つけ》てベチャクチャと饒舌《しゃべ》り出しては止度《とめど》なく、滔々蕩々《とうとうとうとう》として勢い百川《ひゃくせん》の一時に決した如くで、言損じがなければ委《たる》みもなく、多年の揣摩《ずいま》一時の宏弁《こうべん》、自然に備わる抑揚|頓挫《とんざ》、或《あるい》は開き或は闔《と》じて縦横自在に言廻わせば、鷺《さぎ》も烏《からす》に成らずには置かぬ。哀《あわれ》むべし文三は竟《つい》に世にも怖《おそ》ろしい悪棍《わるもの》と成り切ッた所へ、お勢は手に一部の女学雑誌を把持《も》ち、立《たち》ながら読み読み坐舗《ざしき》へ這入て来て、チョイト昇に一礼したのみで嫣然《にっこり》ともせず、饒舌《しゃべり》ながら母親が汲《くん》で出す茶碗《ちゃわん》を憚《はばか》りとも言わずに受取りて、一口飲で下へ差措《さしおい》たまま、済まアし切ッて再《また》復《ふたた》び読みさした雑誌を取り上げて眺《なが》め詰めた、昇と同席の時は何時でもこうで。
「トいう訳でツイそれなり鳧《けり》にしてしまいましたがネ、マア本田さん、貴君《あなた》は何方《どっち》が理屈だとお思なさる」
「それは勿論内海が悪い」
「そのまた悪《わり》い文三の肩を持ッてサ、私《あたし》に喰ッて懸ッた者があると思召《おぼしめ》せ」
「アラ喰ッて懸りはしませんワ」
「喰ッて懸らなくッてサ……私はもうもう腹が立て腹が立て堪《たま》らなかッ
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