無く宿無小僧となり、彼処《あすこ》の親戚《しんせき》此処《ここ》の知己《しるべ》と流れ渡ッている内、曾《かつ》て侍奉公までした事が有るといいイヤ無いという、紛々たる人の噂《うわさ》は滅多に宛《あて》になら坂《ざか》や児手柏《このでがしわ》の上露《うわつゆ》よりももろいものと旁付《かたづけ》て置いて、さて正味の確実《たしか》なところを掻摘《かいつま》んで誌《しる》せば、産《うまれ》は東京《とうけい》で、水道の水臭い士族の一人《かたわれ》だと履歴書を見た者の噺《はな》し、こればかりは偽《うそ》でない。本田|昇《のぼる》と言ッて、文三より二年|前《ぜん》に某省の等外を拝命した以来《このかた》、吹小歇《ふきおやみ》のない仕合《しあわせ》の風にグットのした出来星《できぼし》判任、当時は六等属の独身《ひとりみ》ではまず楽な身の上。
 昇は所謂《いわゆる》才子で、頗《すこぶ》る智慧《ちま》才覚が有ッてまた能《よ》く智慧才覚を鼻に懸ける。弁舌は縦横無尽、大道に出る豆蔵《まめぞう》の塁を摩して雄を争うも可なりという程では有るが、竪板《たていた》の水の流を堰《せき》かねて折節は覚えず法螺《ほら》を吹く事もある。また小奇用《こぎよう》で、何一ツ知らぬという事の無い代り、これ一ツ卓絶《すぐれ》て出来るという芸もない、怠《ずるけ》るが性分で倦《あき》るが病だといえばそれもその筈《はず》か。
 昇はまた頗る愛嬌《あいきょう》に富でいて、極《きわめ》て世辞がよい。殊《こと》に初対面の人にはチヤホヤもまた一段で、婦人にもあれ老人にもあれ、それ相応に調子を合せて曾てそらすという事なし。唯《ただ》不思議な事には、親しくなるに随《したが》い次第に愛想《あいそ》が無くなり、鼻の頭《さき》で待遇《あしらっ》て折に触れては気に障る事を言うか、さなくば厭《いや》におひゃらかす。それを憤《いか》りて喰《くっ》て懸れば、手に合う者はその場で捻返《ねじかえ》し、手に合わぬ者は一|時《じ》笑ッて済まして後《のち》、必ず讐《あだ》を酬《むく》ゆる……尾籠《びろう》ながら、犬の糞《くそ》で横面《そっぽう》を打曲《はりま》げる。
 とはいうものの昇は才子で、能く課長殿に事《つか》える。この課長殿というお方は、曾て西欧の水を飲まれた事のあるだけに「殿様風」という事がキツイお嫌《きら》いと見えて、常に口を極めて御同僚方の尊大の風を御|誹謗《ひぼう》遊ばすが、御自分は評判の気むずかし屋で、御意《ぎょい》に叶《かな》わぬとなると瑣細《ささい》の事にまで眼を剥出《むきだ》して御立腹遊ばす、言わば自由主義の圧制家という御方だから、哀れや属官の人々は御機嫌《ごきげん》の取様に迷《まごつ》いてウロウロする中に、独り昇は迷《まごつ》かぬ。まず課長殿の身態《みぶり》声音《こわいろ》はおろか、咳払《せきばら》いの様子から嚔《くさめ》の仕方まで真似《まね》たものだ。ヤそのまた真似の巧《たくみ》な事というものは、あたかもその人が其処《そこ》に居て云為《うんい》するが如くでそっくりそのまま、唯相違と言ッては、課長殿は誰の前でもアハハハとお笑い遊ばすが、昇は人に依ッてエヘヘ笑いをする而已《のみ》。また課長殿に物など言懸けられた時は、まず忙わしく席を離れ、仔細《しさい》らしく小首を傾けて謹《つつしん》で承り、承り終ッてさて莞爾《にっこり》微笑して恭《うやうや》しく御返答申上る。要するに昇は長官を敬すると言ッても遠ざけるには至らず、狎《な》れるといっても涜《けが》すには至らず、諸事万事御意の随意々々《まにまに》曾て抵抗した事なく、しかのみならず……此処が肝賢|要《かなめ》……他の課長の遺行を数《かぞえ》て暗に盛徳を称揚する事も折節はあるので、課長殿は「見所のある奴じゃ」ト御意遊ばして御贔負《ごひいき》に遊ばすが、同僚の者は善く言わぬ。昇の考では皆|法界悋気《ほうかいりんき》で善く言わぬのだという。
 ともかくも昇は才子で、毎日怠らず出勤する。事務に懸けては頗る活溌《かっぱつ》で、他人の一日分|沢山《たっぷり》の事を半日で済ましても平気孫左衛門、難渋そうな顔色《かおつき》もせぬが、大方は見せかけの勉強|態《ぶり》、小使給事などを叱散《しかりち》らして済まして置く。退省《ひけ》て下宿へ帰る、衣服を着更《きかえ》る、直ぐ何処《いずれ》へか遊びに出懸けて、落着て在宿していた事は稀《まれ》だという。日曜日には、御機嫌伺いと号して課長殿の私邸へ伺候し、囲碁のお相手をもすれば御私用をも達《た》す。先頃もお手飼に狆《ちん》が欲しいと夫人の御意、聞《きく》よりも早飲込み、日ならずして何処で貰《もら》ッて来た事か、狆の子一|疋《ぴき》を携えて御覧に供える。件《くだん》の狆を御覧じて課長殿が「此奴《こいつ》妙な貌《かお》をしているじゃアない
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