コリして、さて坐舗を見廻わし、
「オヤ大変片付たこと」
「余りヒッ散らかっていたから」
 ト我知らず言ッて文三は我を怪んだ。何故|虚言《そらごと》を言ッたか自分にも解りかねる。お勢は座に着きながら、さして吃驚《びっくり》した様子もなく、
「アノ今母親さんがお噺《はな》しだッたが、文さん免職におなりなすったとネ」
「昨日《きのう》免職になりました」
 ト文三も今朝とはうって反《かわ》ッて、今は其処どころで無いと言ッたような顔付。
「実に面目は有りませんが、しかし幾程《いくら》悔んでも出来た事は仕様が無いと思ッて今朝母親さんに御風聴《ごふいちょう》申したが……叱られました」
 トいって歯を囓切《くいしば》ッて差俯向《さしうつむ》く。
「そうでしたとネー、だけれども……」
「二十三にも成ッて親一人楽に過す事の出来ない意久地なし、と言わないばかりに仰《おっ》しゃッた」
「そうでしたとネー、だけれども……」
「成程私は意久地なしだ、意久地なしに違いないが、しかしなんぼ叔母甥の間柄《あいだがら》だと言ッて面と向ッて意久地なしだと言われては、腹も立たないが余《あんま》り……」
「だけれどもあれは母親さんの方が不条理ですワ。今もネ母親さんが得意になってお話しだったから、私が議論したのですよ。議論したけれども母親さんには私の言事《いうこと》が解らないと見えてネ、唯《ただ》腹ばッかり立てているのだから、教育の無い者は仕様がないのネー」
 ト極り文句。文三は垂れていた頭《こうべ》をフッと振挙げて、
「エ、母親さんと議論を成《な》すった」
「ハア」
「僕の為めに」
「ハア、君の為めに弁護したの」
「アア」
 ト言ッて文三は差俯向いてしまう。何《なん》だか膝《ひざ》の上へボッタリ落ちた物が有る。
「どうかしたの、文さん」
 トいわれて文三は漸く頭《こうべ》を擡《もた》げ、莞爾《にっこり》笑い、その癖|※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶち》を湿《うる》ませながら、
「どうもしないが……実に……実に嬉れしい……母親さんの仰しゃる通り、二十三にも成ッてお袋一人さえ過しかねるそんな不甲斐《ふがい》ない私をかばって母親さんと議論をなすったと、実に……」
「条理を説ても解らない癖に腹ばかり立てているから仕様がないの」
 ト少し得意の躰《てい》。
「アアそれ程までに私《わたくし》を……思ッて下さるとは知らずして、貴嬢《あなた》に向ッて匿立《かくしだ》てをしたのが今更|耻《はず》かしい、アア耻かしい。モウこうなれば打散《ぶちま》けてお話してしまおう、実はこれから下宿をしようかと思ッていました」
「下宿を」
「サ為《し》ようかと思ッていたんだが、しかしもう出来ない。他人同様の私をかばって実の母親さんと議論をなすった、その貴嬢の御信切を聞ちゃ、しろと仰しゃッてももう出来ない……がそうすると、母親さんにお詫《わび》を申さなければならないが……」
「打遣《うっちゃ》ッてお置きなさいヨ。あんな教育の無い者が何と言ッたッて好う御座んさアネ」
「イヤそうでない、それでは済まない、是非お詫を申そう。がしかしお勢さん、お志は嬉しいが、もう母親さんと議論をすることは罷《や》めて下さい、私の為めに貴嬢を不孝の子にしては済まないから」
「お勢」
 ト下坐舗の方でお政の呼ぶ声がする。
「アラ母親さんが呼んでお出でなさる」
「ナアニ用も何にも有るんじゃアないの」
「お勢」
「マア返事を為《な》さいヨ」
「お勢お勢」
「ハアイ……チョッ五月蠅《うるさい》こと」
 ト起揚《たちあが》る。
「今話した事は皆《みんな》母親さんにはコレですよ」
 ト文三が手頭《てくび》を振ッて見せる。お勢は唯|点頭《うなずい》た而已《のみ》で言葉はなく、二階を降りて奥坐舗へ参ッた。
 先程より疳癪《かんしゃく》の眥《まなじり》を釣《つ》り上げて手ぐすね引て待ッていた母親のお政は、お勢の顔を見るより早く、込み上げて来る小言を一時にさらけ出しての大怒鳴《おおがなり》。
「お……お……お勢、あれ程呼ぶのがお前には聞えなかッたかエ、聾者《つんぼ》じゃアあるまいし、人《しと》が呼んだら好加減に返事をするがいい……全躰マア何の用が有ッて二階へお出でだ、エ、何の用が有ッてだエ」
 ト逆上《のぼせ》あがッて極《き》め付けても、此方《こなた》は一向平気なもので、
「何《な》にも用は有りゃアしないけれども……」
「用がないのに何故お出でだ。先刻《さっき》あれほど、もうこれからは今までのようにヘタクタ二階へ往ッてはならないと言ッたのがお前にはまだ解らないかエ。さかりの附た犬じゃアあるまいし、間《ま》がな透《すき》がな文三の傍《そば》へばッかし往きたがるよ」
「今までは二階へ往ッても善くッてこれからは悪いなんぞッて、そんな不条理な
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