何《いか》にしても腹に据《す》えかねる。何故《なぜ》意久地がないとて叔母がああ嘲《あざけ》り辱《はずかし》めたか、其処《そこ》まで思い廻らす暇がない、唯もう腸《はらわた》が断《ちぎ》れるばかりに悔しく口惜しく、恨めしく腹立たしい。文三は憤然として「ヨシ先がその気なら此方《こっち》もその気だ、畢竟《ひっきょう》姨《おば》と思えばこそ甥と思えばこそ、言たい放題をも言わして置くのだ。ナニ縁を断《き》ッてしまえば赤の他人、他人に遠慮も糸瓜《へちま》もいらぬ事だ……糞ッ、面宛《つらあて》半分に下宿をしてくれよう……」ト肚《はら》の裏《うち》で独言《ひとりごと》をいうと、不思議やお勢の姿が目前にちらつく。「ハテそうしては彼娘《あれ》が……」ト文三は少しく萎《しお》れたが……不図又叔母の悪々《にくにく》しい者面《しゃっつら》を憶出《おもいいだ》して、又|憤然《やっき》となり、「糞ッ止めても止まらぬぞ」ト何時《いつ》にない断念《おもいきり》のよさ。こう腹を定《き》めて見ると、サアモウ一刻も居るのが厭になる、借住居かとおもえば子舎《へや》が気に喰わなくなる、我物でないかと思えば縁《ふち》の欠けた火入まで気色《きしょく》に障わる。時計を見れば早十一時、今から荷物を取旁付《とりかたづ》けて是非とも今日中には下宿を為よう、と思えば心までいそがれ、「糞ッ止めても止まらぬぞ」ト口癖のように言いながら、熱気《やっき》となって其処らを取旁付けにかかり、何か探そうとして机の抽斗《ひきだし》を開け、中《うち》に納《い》れてあッた年頃五十の上をゆく白髪たる老婦の写真にフト眼を注《と》めて、我にもなく熟々《つらつら》と眺《なが》め入ッた。これは老母の写真で。御存知の通り文三は生得《しょうとく》の親おもい、母親の写真を視て、我が辛苦を甞《な》め艱難《かんなん》を忍びながら定めない浮世に存生《なが》らえていたる、自分|一個《ひとり》の為《ため》而已《のみ》でない事を想出《おもいいだ》し、我と我を叱《しか》りもし又励しもする事何時も何時も。今も今母親の写真を見て文三は日頃|喰付《たべつ》けの感情をおこし覚えずも悄然《しょうぜん》と萎れ返ッたが、又|悪々《にくにく》しい叔母の者面《しゃっつら》を憶出して又|熱気《やっき》となり、拳《こぶし》を握り歯を喰切《くいしば》り、「糞ッ止めて止まらぬぞ」ト独言《ひとりごと》を言いながら再び将《まさ》に取旁付《とりかたづけ》に懸らんとすると、二階の上り口で「お飯《まんま》で御座いますヨ」ト下女の呼ぶ声がする。故《ことさ》らに二三度呼ばして返事にも勿躰《もったい》をつけ、しぶしぶ二階を降りて、気むずかしい苦り切ッた怖《おそ》ろしい顔色をして奥坐舗《おくざしき》の障子を開けると……お勢がいるお勢が……今まで残念口惜しいと而已《のみ》一途に思詰めていた事ゆえ、お勢の事は思出したばかりで心にも止めず忘れるともなく忘れていたが、今突然可愛らしい眼と眼を看合わせ、しおらしい口元で嫣然《にっこり》笑われて見ると……淡雪《あわゆき》の日の眼に逢《あ》ッて解けるが如く、胸の鬱結《むすぼれ》も解けてムシャクシャも消え消えになり、今までの我を怪しむばかり、心の変動、心底《むなそこ》に沈んでいた嬉《うれ》しみ有難みが思い懸けなくもニッコリ顔へ浮み出し懸ッた……が、グッと飲込んでしまい、心では笑いながら顔ではフテテ膳に向ッた。さて食事も済む。二階へ立戻ッて文三が再び取旁付に懸ろうとして見たが、何となく拍子抜《ひょうしぬ》けがして以前のような気力が出ない。ソッと小声で「大丈夫」と言ッて見たがどうも気が引立《ひった》たぬ。依《よっ》て更に出直して「大丈夫」ト熱気《やっき》とした風《ふり》をして見て、歯を喰切《くいしば》ッて見て、「一旦思い定めた事を変《へん》がえるという事が有るものか……しらん、止めても止まらんぞ」
と言ッて出て往《ゆ》けば、彼娘《あれ》を捨てなければならぬかと落胆したおもむき。今更未練が出てお勢を捨るなどという事は勿躰《もったい》なくて出来ず、と言ッて叔母に詫言《わびごと》を言うも無念、あれも厭《いや》なりこれも厭なりで思案の糸筋が乱《もつ》れ出し、肚の裏《うち》では上を下へとゴッタ返えすが、この時より既にどうやら人が止めずとも遂《つい》には我から止まりそうな心地がせられた。「マアともかくも」ト取旁付に懸りは懸ッたが、考えながらするので思の外暇取り、二時頃までかかって漸《ようや》く旁付終りホッと一息吐いていると、ミシリミシリと梯子段《はしごだん》を登る人の跫音《あしおと》がする。跫音を聞たばかりで姿を見ずとも文三にはそれと解ッた者か、先刻飲込んだニッコリを改めて顔へ現わして其方《そなた》を振向く。上ッて来た者はお勢で、文三の顔を見てこれもまたニッ
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