まごつ》く。そこで頬張ッていた楊枝をこれ幸いと、我にも解らぬ出鱈目《でたらめ》を句籠勝《くごもりがち》に言ッてまず一寸遁《いっすんのが》れ、匆々《そこそこ》に顔を洗ッて朝飯《あさはん》の膳《ぜん》に向ッたが、胸のみ塞がッて箸《はし》の歩みも止まりがち、三膳の飯を二膳で済まして、何時《いつ》もならグッと突出す膳もソッと片寄せるほどの心遣い、身体《からだ》まで俄《にわか》に小いさくなったように思われる。
文三が食事を済まして縁側を廻わり窃《ひそ》かに奥の間を覗《のぞ》いて見れば、お政ばかりでお勢の姿は見えぬ。お勢は近属《ちかごろ》早朝より駿河台辺《するがだいへん》へ英語の稽古《けいこ》に参るようになッたことゆえ、さては今日ももう出かけたのかと恐々《おそるおそる》座舗《ざしき》へ這入《はい》ッて来る。その文三の顔を見て今まで火鉢《ひばち》の琢磨《すりみがき》をしていたお政が、俄かに光沢布巾《つやぶきん》の手を止《とど》めて不思議そうな顔をしたもその筈《はず》、この時の文三の顔色《がんしょく》がツイ一通りの顔色でない。蒼《あお》ざめていて力なさそうで、悲しそうで恨めしそうで耻《はず》かしそうで、イヤハヤ何とも言様がない。
「文さんどうかお為《し》か、大変顔色がわりいヨ」
「イエどうも為ませぬが……」
「それじゃア疾《はや》くお為ヨ。ソレ御覧な、モウ八時にならアネ」
「エーまだお話し……申しませんでしたが……実は、ス、さくじつ……め……め……」
息気《いき》はつまる、冷汗は流れる、顔は※[#「赤+報のつくり」、50−8]《あか》くなる、如何《いか》にしても言切れぬ。暫《しば》らく無言でいて、更らに出直おして、
「ム、めん職になりました」
ト一思いに言放ッて、ハッと差俯向《さしうつむ》いてしまう。聞くと等しくお政は手に持ッていた光沢布巾《つやぶきん》を宙に釣《つ》るして、「オヤ」と一|声《せい》叫んで身を反らしたまま一句も出《い》でばこそ、暫らくは唯《ただ》茫然《ぼうぜん》として文三の貌《かお》を目守《みつ》めていたが、稍《やや》あッて忙《いそが》わしく布巾を擲却《ほう》り出して小膝《こひざ》を進ませ、
「エ御免にお成りだとエ……オヤマどうしてマア」
「ど、ど、どうしてだか……私《わたくし》にも解りませんが……大方……ひ、人減《ひとべ》らしで……」
「オーヤオーヤ仕様がないネー、マア御免になってサ。ほんとに仕様がないネー」
ト落胆した容子《ようす》。須臾《しばらく》あッて、
「マアそれはそうと、これからはどうして往《い》く積《つもり》だエ」
「どうも仕様が有りませんから、母親《おふくろ》にはもう些《すこ》し国に居て貰《もら》ッて、私はまた官員の口でも探そうかと思います」
「官員の口てッたッてチョックラチョイと有りゃアよし、無かろうもんならまた何時《いつう》かのような憂《つら》い思いをしなくッちゃアならないやアネ……だから私《あたし》が言わない事《こっ》ちゃアないんだ、些《ち》イと課長さんの所《とこ》へも御機嫌《ごきげん》伺いにお出でお出でと口の酸ぱくなるほど言ッても強情張ッてお出ででなかッたもんだから、それでこんな事になったんだヨ」
「まさかそういう訳でもありますまいが……」
「イイエ必《きっ》とそうに違いないヨ。デなくッて成程《なんぼ》人減《しとへ》らしだッて罪も咎《とが》もない者をそう無暗《むやみ》に御免になさる筈がないやアネ……それとも何か御免になっても仕様がないようなわりい事をした覚えがお有りか」
「イエ何にも悪い事をした覚えは有りませんが……」
「ソレ御覧なネ」
両人とも暫らく無言。
「アノ本田さんは([#ここから割り注]この男の事は第六回にくわしく[#ここで割り注終わり])どうだッたエ」
「かの男はよう御座んした」
「オヤ善かッたかい、そうかい、運の善方《いいかた》は何方《どっち》へ廻ッても善《いい》んだネー。それというが全躰《ぜんたい》あの方は如才がなくッて発明で、ハキハキしてお出でなさるからだヨ。それに聞けば課長さんの所《とこ》へも常不断《じょうふだん》御機嫌伺いにお出でなさるという事《こっ》たから、必《きっ》とそれで此度《こんど》も善かッたのに違いないヨ。だからお前さんも私の言事《いうこと》を聴いて、課長さんに取り入ッて置きゃア今度もやっぱり善かッたのかも知れないけれども、人の言事をお聴きでなかッたもんだからそれでこんな事になっちまッたんだ」
「それはそうかも知れませんが、しかし幾程《いくら》免職になるのが恐《こわ》いと言ッて、私にはそんな鄙劣《ひれつ》な事は……」
「出来ないとお言いのか……フン※[#「やまいだれ+瞿」、第3水準1−88−62]我慢《やせがまん》をお言いでない、そんな了簡方だから課長さんにも睨
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