小悪戯《こいたずら》をしたもんだけれども、この娘《こ》はズー体《たい》ばかり大くッても一向しきなお懐《ぽっぽ》だもんだから、それで何時まで経ッても世話ばッかり焼けてなりゃアしないんだヨ」
「だから母親さんは厭ヨ、些《ちい》とばかりお酒に酔うと直《じき》に親子の差合いもなくそんな事をお言いだものヲ」
「ヘーヘー恐れ煎豆《いりまめ》はじけ豆ッ、あべこべに御意見か。ヘン、親の謗《そしり》はしりよりか些と自分の頭の蠅《はえ》でも逐《お》うがいいや、面白くもない」
「エヘヘヘヘ」
「イエネこの通り親を馬鹿にしていて、何を言ッてもとても私共の言事《いうこと》を用いるようなそんな素直なお嬢さまじゃアないんだから、此度《こんだ》文さんヨーク腹に落ちるように言ッて聞かせておくんなさい、これでもお前さんの言事なら、些《ちっ》たア聞くかも知れないから」
 トお政は又もお勢を尻目に懸ける。折しも紙襖《ふすま》一ツ隔ててお鍋の声として、
「あんな帯留め……どめ……を……」
 此方《こなた》の三人は吃驚《びっくり》して顔を見合わせ「オヤ鍋の寐言《ねごと》だヨ」と果ては大笑いになる。お政は仰向いて柱時計を眺《なが》め、
「オヤもう十一時になるヨ、鍋の寐言を言うのも無理はない、サアサア寝ましょう寝ましょう、あんまり夜深しをするとまた翌日《あした》の朝がつらい。それじゃア文さん、先刻《さっき》の事はいずれまた翌日《あした》にも緩《ゆっく》りお咄しましょう」
「ハイ私も……私も是非お咄し申さなければならん事が有りますが、いずれまた明日《みょうにち》……それではお休み」
 ト挨拶《あいさつ》をして文三は座舗《ざしき》を立出《たちい》で梯子段《はしごだん》の下《もと》まで来ると、後《うしろ》より、
「文さん、貴君《あなた》の所《とこ》に今日の新聞が有りますか」
「ハイ有ります」
「もうお読みなすッたの」
「読みました」
「それじゃア拝借」
 トお勢は文三の跡に従《つ》いて二階へ上る。文三が机上に載せた新聞を取ッてお勢に渡すと、
「文さん」
「エ」
 返答はせずしてお勢は唯《ただ》笑ッている。
「何です」
「何時《いつう》か頂戴《ちょうだい》した写真を今夜だけお返し申ましょうか」
「何故《なぜ》」
「それでもお淋《さみ》しかろうとおもって、オホオホ」
 ト笑いながら逃ぐるが如く二階を駆下りる。そのお勢の後姿を見送ッて文三は吻《ほっ》と溜息《ためいき》を吐《つ》いて、
「ますます言難《いいにく》い」
 一時間程を経て文三は漸《ようや》く寐支度をして褥《とこ》へは這入《はい》ッたが、さて眠られぬ。眠られぬままに過去《こしかた》将来《ゆくすえ》を思い回《めぐ》らせば回らすほど、尚お気が冴《さえ》て眼も合わず、これではならぬと気を取直し緊《きび》しく両眼を閉じて眠入《ねい》ッた風《ふり》をして見ても自ら欺《あざむ》くことも出来ず、余儀なく寐返りを打ち溜息を吻《つ》きながら眠らずして夢を見ている内に、一番|鶏《どり》が唱《うた》い二番鶏が唱い、漸く暁《あけがた》近くなる。
「寧《いっ》そ今夜《こよい》はこのままで」トおもう頃に漸く眼がしょぼついて来て額《あたま》が乱れだして、今まで眼前に隠見《ちらつい》ていた母親の白髪首《しらがくび》に斑《まばら》な黒髯《くろひげ》が生えて……課長の首になる、そのまた恐《こわ》らしい髯首が暫《しば》らくの間眼まぐろしく水車《みずぐるま》の如くに廻転《まわっ》ている内に次第々々に小いさく成ッて……やがて相恰《そうごう》が変ッて……何時の間にか薔薇《ばら》の花掻頭《はなかんざし》を挿《さ》して……お勢の……首……に……な……

     第五回 胸算《むなさん》違いから見一無法《けんいちむほう》は難題

 枕頭《まくらもと》で喚覚《よびさ》ます下女の声に見果てぬ夢を驚かされて、文三が狼狽《うろたえ》た顔を振揚げて向うを見れば、はや障子には朝日影が斜めに射《さ》している。「ヤレ寐過《ねすご》したか……」と思う間もなく引続いてムクムクと浮み上ッた「免職」の二字で狭い胸がまず塞《ふさ》がる……※[#「くさかんむり/不」、第3水準1−90−64]※[#「くさかんむり/(官−宀)」、第4水準2−86−5]《おんばこ》を振掛けられた死蟇《しにがいる》の身で、躍上《おどりあが》り、衣服を更《あらた》めて、夜の物を揚げあえず楊枝《ようじ》を口へ頬張《ほおば》り故手拭《ふるてぬぐい》を前帯に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《はさ》んで、周章《あわて》て二階を降りる。その足音を聞きつけてか、奥の間で「文さん疾《はや》く為《し》ないと遅くなるヨ」トいうお政の声に圭角《かど》はないが、文三の胸にはぎっくり応《こた》えて返答にも迷惑《
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