が》めながら
「親より大切な者……親より……大切な……者……親より大切な者は私にも有りますワ」
 文三はうな垂れた頸《くび》を振揚げて
「エ、貴嬢にも有りますと」
「ハア有りますワ」
「誰《だ》……誰れが」
「人じゃアないの、アノ真理」
「真理」
 ト文三は慄然《ぶるぶる》と胴震《どうぶるい》をして唇《くちびる》を喰《く》いしめたまま暫《しば》らく無言《だんまり》、稍《やや》あッて俄《にわか》に喟然《きぜん》として歎息して、
「アア、貴嬢は清浄なものだ潔白なものだ……親より大切なものは真理……アア潔白なものだ……しかし感情という者は実に妙なものだナ、人を愚《ぐ》にしたり、人を泣かせたり笑わせたり、人をあえだり揉《もん》だりして玩弄《がんろう》する。玩弄されると薄々気が附きながらそれを制することが出来ない。アア自分ながら……」
 ト些《すこ》し考えて、稍ありて熱気《やっき》となり、
「ダガ思い切れない……どう有ッても思い切れない……お勢さん、貴嬢は御自分が潔白だからこんな事を言ッてもお解りがないかも知れんが、私には真理よりか……真理よりか大切な者があります。去年の暮から全半歳《まるはんとし》、その者の為《た》めに感情を支配せられて、寐《ね》ても寤《さ》めても忘らればこそ、死ぬより辛《つら》いおもいをしていても、先では毫《すこ》しも汲んでくれない。寧ろ強顔《つれ》なくされたならば、また思い切りようも有ろうけれども……」
 ト些し声をかすませて、
「なまじい力におもうの親友だのといわれて見れば私は……どうも……どう有ッても思い……」
「アラ月が……まるで竹の中から出るようですよ、ちょっと御覧なさいヨ」
 庭の一隅《いちぐう》に栽込《うえこ》んだ十竿《ともと》ばかりの繊竹《なよたけ》の、葉を分けて出る月のすずしさ。月夜見の神の力の測りなくて、断雲一片の翳《かげ》だもない、蒼空《あおぞら》一面にてりわたる清光素色、唯|亭々皎々《ていていきょうきょう》として雫《しずく》も滴《した》たるばかり。初は隣家の隔ての竹垣に遮《さえぎ》られて庭を半《なかば》より這初《はいはじ》め、中頃は縁側へ上《のぼ》ッて座舗《ざしき》へ這込み、稗蒔《ひえまき》の水に流れては金瀲※[#「さんずい+艶」、第4水準2−79−53]《きんれんえん》、簷馬《ふうりん》の玻璃《はり》に透《とお》りては玉《ぎょく》玲瓏《れいろう》、座賞の人に影を添えて孤燈一|穂《すい》の光を奪い、終《つい》に間《あわい》の壁へ這上《はいのぼ》る。涼風一陣吹到る毎《ごと》に、ませ籬《がき》によろぼい懸る夕顔の影法師が婆娑《ばさ》として舞い出し、さてわ百合《ゆり》の葉末にすがる露の珠《たま》が、忽ち蛍《ほたる》と成ッて飛迷う。艸花《くさばな》立樹《たちき》の風に揉《も》まれる音の颯々《ざわざわ》とするにつれて、しばしは人の心も騒ぎ立つとも、須臾《しゅゆ》にして風が吹罷《ふきや》めば、また四辺《あたり》蕭然《ひっそ》となって、軒の下艸《したぐさ》に集《すだ》く虫の音《ね》のみ独り高く聞える。眼に見る景色はあわれに面白い。とはいえ心に物ある両人《ふたり》の者の眼には止まらず、唯お勢が口ばかりで
「アア佳《いい》こと」
 トいって何故《なにゆえ》ともなく莞然《にっこり》と笑い、仰向いて月に観惚《みと》れる風《ふり》をする。その半面《よこがお》を文三が窃《ぬす》むが如く眺め遣《や》れば、眼鼻口の美しさは常に異《かわ》ッたこともないが、月の光を受けて些し蒼味を帯《お》んだ瓜実顔《うりざねがお》にほつれ掛ッたいたずら髪、二筋三筋|扇頭《せんとう》の微風に戦《そよ》いで頬《ほお》の辺《あたり》を往来するところは、慄然《ぞっ》とするほど凄味《すごみ》が有る。暫らく文三がシケジケと眺めているト、やがて凄味のある半面《よこがお》が次第々々に此方《こちら》へ捻《ねじ》れて……パッチリとした涼しい眼がジロリと動き出して……見とれていた眼とピッタリ出逢《であ》う。螺《さざい》の壺々口《つぼつぼぐち》に莞然《にっこ》と含んだ微笑を、細根大根に白魚《しらうお》を五本並べたような手が持ていた団扇で隠蔽《かく》して、耻《はず》かしそうなしこなし。文三の眼は俄に光り出す。
「お勢さん」
 但《ただ》し震声《ふるいごえ》で。
「ハイ」
 但し小声で。
「お勢さん、貴嬢《あなた》もあんまりだ、余《あんま》り……残酷だ、私がこれ……これ程までに……」
 トいいさして文三は顔に手を宛《あ》てて黙ッてしまう。意《こころ》を注《とど》めて能《よ》く見れば、壁に写ッた影法師が、慄然《ぶるぶる》とばかり震えている。今|一言《ひとこと》……今一言の言葉の関を、踰《こ》えれば先は妹背山《いもせやま》、蘆垣《あしがき》の間近き人を恋い初《そ》めてより、
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