縮《すく》める。
「オヤ誰方かと思ッたら文さん……淋《さみ》しくッてならないから些《ちっ》とお噺《はな》しにいらッしゃいな」
「エ多謝《ありがと》う、だがもう些《ちっ》と後《のち》にしましょう」
「何か御用が有るの」
「イヤ何も用はないが……」
「それじゃア宜《いい》じゃア有りませんか、ネーいらッしゃいヨ」
 文三は些《すこ》し躊躇《ためらっ》て梯子段を降果てお勢の子舎の入口まで参りは参ッたが、中《うち》へとては立入らず、唯|鵠立《たたずん》でいる。
「お這入《はいん》なさいな」
「エ、エー……」
 ト言ッたまま文三は尚《な》お鵠立《たたずん》でモジモジしている、何か這入りたくもあり這入りたくもなしといった様な容子《ようす》。
「何故《なぜ》貴君《あなた》、今夜に限ッてそう遠慮なさるの」
「デモ貴嬢《あなた》お一人ッきりじゃア……なんだか……」
「オヤマア貴君にも似合わない……アノ何時《いつ》か、気が弱くッちゃア主義の実行は到底覚束ないと仰《おっ》しゃッたのは何人《どなた》だッけ」
 ト※[#「虫+秦」、第4水準2−87−73]《しん》の首を斜《ななめ》に傾《か》しげて嫣然《えんぜん》片頬《かたほ》に含んだお勢の微笑に釣《つ》られて、文三は部屋へ這入り込み坐に着きながら、
「そう言われちゃア一言もないが、しかし……」
「些とお遣いなさいまし」
 トお勢は団扇《うちわ》を取出《とりいだ》して文三に勧め、
「しかしどうしましたと」
「エ、ナニサ影口がどうも五月蠅《うるさく》ッて」
「それはネ、どうせ些とは何とか言いますのサ。また何とか言ッたッて宜じゃア有りませんか、若《も》しお相互《たがい》に潔白なら。どうせ貴君、二千年来の習慣を破るんですものヲ、多少の艱苦《かんく》は免《のが》れッこは有りませんワ」
「トハ思ッているようなものの、まさか影口が耳に入ると厭《いや》なものサ」
「それはそうですヨネー。この間もネ貴君、鍋が生意気に可笑《おか》しな事を言ッて私にからかうのですよ。それからネ私が余《あんま》り五月蠅なッたから、到底解るまいとはおもいましたけれども試《こころみ》に男女交際論を説て見たのですヨ。そうしたらネ、アノなんですッて、私の言葉には漢語が雑《ま》ざるから全然《まるっきり》何を言ッたのだか解りませんて……真個《ほんと》に教育のないという者は仕様のないもんですネー」
「アハハハ其奴《そいつ》は大笑いだ……しかし可笑しく思ッているのは鍋ばかりじゃア有りますまい、必《きっ》と母親《おっか》さんも……」
「母ですか、母はどうせ下等の人物ですから始終可笑しな事を言ッちゃアからかいますのサ。それでもネ、そのたんびに私が辱《はずか》しめ辱しめ為《し》い為いしたら、あれでも些とは耻《は》じたと見えてネ、この頃じゃアそんなに言わなくなりましたよ」
「ヘーからかう、どんな事を仰しゃッて」
「アノーなんですッて、そんなに親しくする位なら寧《むし》ろ貴君と……(すこしもじもじして言かねて)結婚してしまえッて……」
 ト聞くと等しく文三は駭然《ぎょっ》としてお勢の顔を目守《みつめ》る。されど此方《こなた》は平気の躰《てい》で
「ですがネ、教育のない者ばかりを責める訳にもいけませんヨネー。私の朋友《ほうゆう》なんぞは、教育の有ると言う程有りゃアしませんがネ、それでもマア普通の教育は享《う》けているんですよ、それでいて貴君、西洋主義の解るものは、二十五人の内に僅《たった》四人《よったり》しかないの。その四人《よったり》もネ、塾にいるうちだけで、外《ほか》へ出てからはネ、口程にもなく両親に圧制せられて、みんなお嫁に往《い》ッたりお婿《むこ》を取ッたりしてしまいましたの。だから今までこんな事を言ッてるものは私ばッかりだとおもうと、何だか心細《こころぼそく》ッて心細ッてなりません。でしたがネ、この頃は貴君という親友が出来たから、アノー大変気丈夫になりましたわ」
 文三はチョイと一礼して
「お世辞にもしろ嬉《うれ》しい」
「アラお世辞じゃア有りませんよ、真実《ほんとう》ですよ」
「真実なら尚お嬉しいが、しかし私にゃア貴嬢《あなた》と親友の交際は到底出来ない」
「オヤ何故ですエ、何故親友の交際が出来ませんエ」
「何故といえば、私には貴嬢が解からず、また貴嬢には私が解からないから、どうも親友の交際は……」
「そうですか、それでも私には貴君はよく解ッている積りですよ。貴君の学識が有ッて、品行が方正で、親に孝行で……」
「だから貴嬢には私が解らないというのです。貴嬢は私を親に孝行だと仰しゃるけれども、孝行じゃア有りません。私には……親より……大切な者があります……」
 ト吃《どもり》ながら言ッて文三は差俯向《さしうつむ》いてしまう。お勢は不思議そうに文三の容子を眺《な
前へ 次へ
全74ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
二葉亭 四迷 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング