昼は終日《ひねもす》夜は終夜《よもすがら》、唯その人の面影《おもかげ》而已《のみ》常に眼前《めさき》にちらついて、砧《きぬた》に映る軒の月の、払ッてもまた去りかねていながら、人の心を測りかねて、末摘花《すえつむはな》の色にも出さず、岩堰水《いわせくみず》の音にも立てず、独りクヨクヨ物をおもう、胸のうやもや、もだくだを、払うも払わぬも今一言の言葉の綾《あや》……今一言……僅《たった》一言……その一言をまだ言わぬ……折柄《おりから》ガラガラと表の格子戸《こうしど》の開《あ》く音がする……吃驚《びっくり》して文三はお勢と顔を見合わせる、蹶然《むっく》と起上《たちあが》る、転げるように部屋を駆出る。但しその晩はこれきりの事で別段にお話しなし。
翌朝に至りて両人《ふたり》の者は始めて顔を合わせる。文三はお勢よりは気まりを悪がッて口数をきかず、この夏の事務の鞅掌《いそがし》さ、暑中休暇も取れぬので匆々《そうそう》に出勤する。十二時頃に帰宅する。下坐舗《したざしき》で昼食《ちゅうじき》を済して二階の居間へ戻り、「アア熱かッた」ト風を納《い》れている所へ梯子バタバタでお勢が上《あが》ッて参り、二ツ三ツ英語の不審を質問する。質問してしまえばもはや用の無い筈《はず》だが、何かモジモジして交野《かたの》の鶉《うずら》を極めている。やがて差俯向いたままで鉛筆を玩弄《おもちゃ》にしながら
「アノー昨夕《ゆうべ》は貴君どうなすったの」
返答なし。
「何だか私が残酷だッて大変|憤《おこ》ッていらしったが、何が残酷ですの」
ト笑顔《えがお》を擡《もた》げて文三の顔を窺《のぞ》くと、文三は狼狽《あわて》て彼方《あちら》を向いてしまい
「大抵察していながらそんな事を」
「アラそれでも私にゃ何だか解りませんものヲ」
「解らなければ解らないでよう御座んす」
「オヤ可笑しな」
それから後は文三と差向いになる毎に、お勢は例の事を種にして乙《おつ》うからんだ水向け文句、やいのやいのと責め立てて、終《つい》には「仰しゃらぬとくすぐりますヨ」とまで迫ッたが、石地蔵と生れ付たしょうがには、情談のどさくさ紛れにチョックリチョイといって除《の》ける事の出来ない文三、然《しか》らばという口付からまず重くろしく折目正しく居すまッて、しかつべらしく思いのたけを言い出だそうとすれば、お勢はツイと彼方《あちら》を向いて「アラ鳶《とんび》が飛でますヨ」と知らぬ顔の半兵衛|模擬《もどき》、さればといって手を引けば、また意《こころ》あり気な色目遣い、トこうじらされて文三は些《ち》とウロが来たが、ともかくも触らば散ろうという下心の自《おのずか》ら素振りに現われるに「ハハア」と気が附て見れば嬉しく難有《ありがた》く辱《かたじ》けなく、罪も報《むくい》も忘れ果てて命もトントいらぬ顔付。臍《へそ》の下を住家として魂が何時の間にか有頂天外へ宿替をすれば、静かには坐ッてもいられず、ウロウロ座舗を徘徊《まごつ》いて、舌を吐たり肩を縮《すく》めたり思い出し笑いをしたり、又は変ぽうらいな手附きを為たりなど、よろずに瘋癲《きちがい》じみるまで喜びは喜んだが、しかしお勢の前ではいつも四角四面に喰いしばって猥褻《みだり》がましい挙動《ふるまい》はしない。尤《もっと》も曾《かつ》てじゃらくらが高じてどやぐやと成ッた時、今まで※[#「りっしんべん+喜」、第4水準2−12−73]《うれ》しそうに笑ッていた文三が俄かに両眼を閉じて静まり返えり何と言ッても口をきかぬので、お勢が笑らいながら「そんなに真面目《まじめ》にお成《なん》なさるとこう成《す》るからいい」とくすぐりに懸ッたその手頭《てさき》を払らい除けて文三が熱気《やっき》となり、「アア我々の感情はまだ習慣の奴隷だ。お勢さん下へ降りて下さい」といった為めにお勢に憤られたこともあッたが……しかしお勢も日を経《ふ》るままに草臥《くたび》れたか、余りじゃらくらもしなくなって、高笑らいを罷《や》めて静かになッて、この頃では折々物思いをするようには成ッたが、文三に向ッてはともすればぞんざいな言葉遣いをするところを見れば、泣寐入りに寐入ッたのでもない光景《ようす》。
アア偶々《たまたま》咲懸ッた恋の蕾《つぼみ》も、事情というおもわぬ沍《いて》にかじけて、可笑しく葛藤《もつ》れた縁《えにし》の糸のすじりもじった間柄、海へも附かず河へも附かぬ中ぶらりん、月下翁《むすぶのかみ》の悪戯《たわむれ》か、それにしても余程風変りな恋の初峯入り。
文三の某省へ奉職したは昨日《きのう》今日のように思う間に既に二年近くになる。年頃節倹の功が現われてこの頃では些《すこ》しは貯金《たくわえ》も出来た事ゆえ、老※[#「者」の「日」に代えて「至」、第4水準2−85−3]《としよ》ッたお袋に何時までも一人
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