と投首《なげくび》をした。
が、その内にふと嬉しく思い惑う事に出遇《であ》ッた。というは他の事でも無い、お勢が俄《にわか》に昇と疎々《うとうと》しくなった、その事で。それまではお勢の言動に一々目を注《つ》けて、その狂う意《こころ》の跟《あと》を随《した》いながら、我も意《こころ》を狂わしていた文三もここに至って忽《たちま》ち道を失って暫く思念の歩《あゆみ》を留《とど》めた。あれ程までにからんだ両人《ふたり》の関繋が故なくして解《ほつ》れてしまう筈《はず》は無いから、早まって安心はならん。けれど、喜ぶまいとしても、喜ばずにはいられんはお勢の文三に対する感情の変動で、その頃までは、お政程には無くとも、文三に対して一種の敵意を挟《さしはさ》んでいたお勢が俄に様子を変えて、顔を※[#「赤+報のつくり」、216−13]《あか》らめ合《あっ》た事は全く忘れたようになり、眉《まゆ》を皺《しか》め眼の中《うち》を曇らせる事はさて置き、下女と戯《たわぶ》れて笑い興じている所へ行きがかりでもすれば、文三を顧みて快気《こころよげ》に笑う事さえ有る。この分なら、若し文三が物を言いかけたら、快く返答するかと思われる。四辺《あたり》に人眼が無い折などには、文三も数々《しばしば》話しかけてみようかとは思ったが、万一《ばんいち》に危む心から、暫く差控ていた――差控ているは寧《む》しろ愚に近いとは思いながら、尚お差控ていた。
編物を始めた四五日後の事で有った、或日の夕暮、何か用事が有って文三は奥座敷へ行《ゆ》こうとて、二階を降りてと見ると、お勢が此方《こちら》へ背を向けて縁端《えんばな》に佇立《たたず》んでいる。少しうなだれて何か一心に為《し》ていたところ、編物かと思われる。珍らしいうちゆえと思いながら、文三は何心なくお勢の背後《うしろ》を通り抜けようとすると、お勢が彼方《あちら》向いたままで、突然「まだかえ?」という。勿論|人違《ひとたがえ》と見える。が、この数週《すしゅう》の間|妄想《ぼうそう》でなければ言葉を交《まじ》えた事の無いお勢に今思い掛なくやさしく物を言いかけられたので、文三ははっと当惑して我にも無く立留る、お勢も返答の無いを不思議に思ってか、ふと此方《こちら》を振向く途端に、文三と顔を相視《みあわ》しておッと云って驚いた、しかし驚きは驚いても、狼狽《うろたえ》はせず、徒《ただ》莞爾《にっこり》したばかりで、また彼方《あちら》向いて、そして編物に取掛ッた。文三は酒に酔った心地、どう仕ようという方角もなく、只|茫然《ぼうぜん》として殆ど無想の境に彷徨《さまよ》ッているうちに、ふと心附いた、は今日お政が留守の事。またと無い上首尾。思い切って物を言ってみようか……と思い掛けてまたそれと思い定めぬうちに、下女部屋の紙障《しょうじ》がさらりと開く、その音を聞くと文三は我にも無く突《つ》と奥座敷へ入ッてしまった――我にも無く、殆ど見られては不可《わるい》とも思わずして。奥座敷へ入ッて聞いていると、やがてお鍋がお勢の側《そば》まで来て、ちょいと立留ッた光景《けはい》で「お待遠うさま」という声が聞えた。お勢は返答をせず、只何か口疾《くちばや》に囁《ささや》いた様子で、忍音《しのびね》に笑う声が漏れて聞えると、お鍋の調子|外《はずれ》の声で「ほんとに内海《うつ》……」「しッ!……まだ其所《そこ》に」と小声ながら聞取れるほどに「居るんだよ」。お鍋も小声になりて「ほんとう?」「ほんとうだよ」
こう成《なっ》て見ると、もう潜《ひそまッ》ているも何となく極《きまり》が悪くなって来たから、文三が素知らぬ顔をしてふッと奥座敷を出る、その顔をお鍋は不思議そうに眺《なが》めながら、小腰を屈《ひく》めて「ちょいとお湯へ」と云ッてから、ふと何か思い出して、肝《きも》を潰《つぶ》した顔をして周章《あわて》て、「それから、あの、若し御新造《ごしんぞ》さまがお帰《かえん》なすって御膳《ごぜん》を召上《めしやが》ると仰《おッしゃ》ッたら、お膳立をしてあの戸棚《とだな》へ入れときましたから、どうぞ……お嬢さま、もう直《すぐ》宜《よ》うござんすか? それじゃア行ってまいります」。お勢は笑い出しそうな眼元でじろり文三の顔を掠《かす》めながら、手ばしこく手で持っていた編物を奥座敷へ投入れ、何やらお鍋に云って笑いながら、面白そうに打連れて出て行った。主従とは云いながら、同程《おなじほど》の年頃ゆえ、双方とも心持は朋友《ほうゆう》で、尤《もっと》もこれは近頃こうなッたので、以前はお勢の心が高ぶっていたから、下女などには容易に言葉をもかけなかった。
出て行くお勢の後姿を目送《みおく》って、文三は莞爾《にっこり》した。どうしてこう様子が渝《かわ》ったのか、それを疑っているに遑《いとま》なく、ただ何と
前へ
次へ
全74ページ中73ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
二葉亭 四迷 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング