に掻口説《かきくど》く外、他に仕方もないが、しかし、今の如くに、こう齟齬《くいちが》ッていては言ったとて聴きもすまいし、また毛を吹いて疵《きず》を求めるようではと思えば、こうと思い定めぬうちに、まず気が畏縮《いじ》けて、どうもその気にもなれん。から、また思い詰めた心を解《ほご》して、更に他にさまざまの手段を思い浮べ、いろいろに考え散してみるが、一つとして行われそうなのも見当らず、回《めぐ》り回ッてまた旧《もと》の思案に戻って苦しみ悶《もだ》えるうちに、ふと又例の妄想《もうそう》が働きだして無益な事を思わせられる。時としては妙な気になッて、総てこの頃の事は皆一|時《じ》の戯《たわぶれ》で、お勢は心から文三に背《そむ》いたのでは無くて、只背いた風《ふり》をして文三を試ているので、その証拠には今にお勢が上って来て、例の華かな高笑で今までの葛藤《もだくだ》を笑い消してしまおうと思われる事が有る※[#白ゴマ点、214−8]が、固より永くは続かん※[#白ゴマ点、214−8]無慈悲な記憶が働きだしてこの頃あくたれた時のお勢の顔を憶い出させ、瞬息の間《ま》にその快い夢を破ってしまう。またこういう事も有る※[#白ゴマ点、214−10]ふと気が渝《かわ》って、今こう零落していながら、この様な薬袋《やくたい》も無い事に拘《かかずら》ッて徒《いたずら》に日を送るを極《きわめ》て愚《ぐ》のように思われ、もうお勢の事は思うまいと、少時《しばらく》思の道を絶ッてまじまじとしていてみるが、それではどうも大切な用事を仕懸けて罷《や》めたようで心が落居《おちい》ず、狼狽《うろたえ》てまたお勢の事に立戻って悶え苦しむ。
人の心というものは同一の事を間断なく思ッていると、遂に考え草臥《くたびれ》て思弁力の弱るもので。文三もその通り、始終お勢の事を心配しているうちに、何時からともなく注意が散って一事《ひとこと》には集らぬようになり、おりおり互に何の関係をも持たぬ零々砕々《ちぎれちぎれ》の事を取締《とりしめ》もなく思う事も有った。曾《か》つて両手を頭《かしら》に敷き、仰向けに臥《ふ》しながら天井を凝視《みつ》めて初は例の如くお勢の事をかれこれと思っていたが、その中《うち》にふと天井の木目《もくめ》が眼に入って突然妙な事を思った※[#白ゴマ点、215−2]「こう見たところは水の流れた痕《あと》のようだな」、こう思うと同時にお勢の事は全く忘れてしまった、そして尚お熟々《つくづく》とその木目に視入って、「心の取り方に依っては高低《たかびく》が有るようにも見えるな。ふふん、『おぷちかる、いるりゅうじょん』か」。ふと文三等に物理を教えた外国教師の立派な髯《ひげ》の生えた顔を憶い出すと、それと同時にまた木目の事は忘れてしまった。続いて眼前《めさき》に七八人の学生が現われて来たと視れば、皆同学の生徒等で、或は鉛筆を耳に挿《はさ》んでいる者も有れば、或は書物を抱えている者も有り又は開いて視ている者も有る。能く視れば、どうか文三もその中《うち》に雑《まじ》っているように思われる。今|越歴《エレキ》の講義が終ッて試験に掛る所で、皆「えれくとりある、ましん」の周囲《まわり》に集って、何事とも解らんが、何か頻《しき》りに云い争いながら騒いでいるかと思うと、忽《たちま》ちその「ましん」も生徒も烟《けぶり》の如く痕迹《あとかた》もなく消え失《う》せて、ふとまた木目が眼に入った。「ふん、『おぷちかる、いるりゅうじょん』か」と云って、何故《なにゆえ》ともなく莞爾《にっこり》した。「『いるりゅうじょん』と云えば、今まで読だ書物の中でさるれえ[#「さるれえ」に傍線]の「いるりゅうじょんす」ほど面白く思ったものは無いな。二日一晩に読切ってしまったっけ。あれほどの頭にはどうしたらなるだろう。余程組織が緻密《ちみつ》に違いない……」。さるれえ[#「さるれえ」に傍線]の脳髄とお勢とは何の関係も無さそうだが、この時突然お勢の事が、噴水の迸《ほとばし》る如くに、胸を突いて騰《あが》る。と、文三は腫物《はれもの》にでも触《さわ》られたように、あっと叫びながら、跳ね起きた。しかし、跳ね起きた時は、もうその事は忘れてしまッた、何のために跳ね起きたとも解らん。久く考えていて、「あ、お勢の事か」と辛《から》くして憶い出しは憶い出しても、宛然《さながら》世を隔てた事の如くで、面白くも可笑《おかしく》も無く、そのままに思い棄てた、暫《しばら》くは惘然《ぼうぜん》として気の抜けた顔をしていた。
こう心の乱れるまでに心配するが、しかし只心配するばかりで、事実には少しも益が無いから、自然は己《おの》が為《す》べき事をさっさっとして行ってお勢は益々深味へ陥る。その様子を視て、さすがの文三も今は殆ど志を挫《くじ》き、とても我力にも及ばん
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