みよいに、何故人はそう住み憂《う》く思うか、殆《ほとん》どその意《こころ》を解し得まい※[#白ゴマ点、211−10]また人の老やすく、色の衰え易いことを忘れて、今の若さ、美しさは永劫《えいごう》続くように心得て未来の事などは全く思うまい、よし思ッたところで、華かな、耀《かがや》いた未来の外は夢にも想像に浮ぶまい。昇に狎《な》れ親んでから、お勢は故《もと》の吾を亡《な》くした、が、それには自分も心附くまい※[#白ゴマ点、211−13]お勢は昇を愛しているようで、実は愛してはいず、只昇に限らず、総て男子に、取分けて、若い、美しい男子に慕われるのが何《なに》となく快いので有ろうが、それにもまた自分は心附いていまい。これを要するに、お勢の病《やまい》は外《ほか》から来たばかりではなく、内からも発したので、文三に感染《かぶ》れて少し畏縮《いじけ》た血気が今外界の刺激を受けて一時に暴《あ》れだし、理性の口をも閉じ、認識の眼を眩《くら》ませて、おそろしい力を以《もっ》て、さまざまの醜態に奮見するので有ろう。若しそうなれば、今がお勢の一生中で尤《もっと》も大切な時※[#白ゴマ点、212−2]|能《よ》く今の境界を渡り課《おお》せれば、この一時《ひととき》にさまざまの経験を得て、己の人と為《な》りをも知り、所謂《いわゆる》放心を求め得て始て心でこの世を渡るようになろうが、若し躓《つまず》けばもうそれまで、倒《たおれ》たままで、再び起上る事も出来まい。物のうちの人となるもこの一時《ひととき》、人の中《うち》の物となるもまたこの一時※[#白ゴマ点、212−5]今が浮沈の潮界《しおざかい》、尤も大切な時で有るに、お勢はこの危い境を放心《うっかり》して渡ッていて何時《いつ》眼が覚めようとも見えん。
 このままにしては置けん。早く、手遅れにならんうちに、お勢の眠《ねぶ》った本心を覚まさなければならん、が、しかし誰がお勢のためにこの事に当ろう?
 見渡したところ、孫兵衛は留守、仮令《たとい》居たとて役にも立たず、お政は、あの如く、娘を愛する心は有りても、その道を知らんから、娘の道心を縊殺《しめころ》そうとしていながら、しかも得意顔《したりがお》でいるほどゆえ、固《もと》よりこれは妨《さまたげ》になるばかり、ただ文三のみは、愚昧《ぐまい》ながらも、まだお勢よりは少しは智識も有り、経験も有れば、若しお勢の眼を覚ます者が必要なら、文三を措いて誰《たれ》がなろう?
 と、こうお勢を見棄《みすて》たくないばかりでなく、見棄ては寧《むし》ろ義理に背《そむ》くと思えば、凝性《こりしょう》の文三ゆえ、もウ余事は思ッていられん、朝夕只この事ばかりに心を苦めて悶苦《もだえくるし》んでいるから、あたかも感覚が鈍くなったようで、お政が顔を皺《しか》めたとて、舌鼓を鳴らしたとて、その時ばかり少し居辛《いづら》くおもうのみで、久しくそれに拘《かかずら》ってはいられん。それでこう邪魔にされると知りつつ、園田の家を去る気にもなれず、いまに六畳の小座舗《こざしき》に気を詰らして始終壁に対《むか》ッて歎息《たんそく》のみしているので。
 歎息のみしているので、何故なればお勢を救おうという志は有っても、その道を求めかねるから。「どうしたものだろう?」という問は日に幾度《いくたび》となく胸に浮ぶが、いつも浮ぶばかりで、答を得ずして消えてしまい、その跡に残るものは只不満足の三字。その不満足の苦を脱《のが》れようと気をあせるから、健康《すこやか》な智識は縮んで、出過た妄想《ぼうそう》が我から荒出《あれだ》し、抑えても抑え切れなくなッて、遂にはまだどうしてという手順をも思附き得ぬうちに、早くもお勢を救い得た後《のち》の楽しい光景《ありさま》が眼前《めさき》に隠現《ちらつ》き、払っても去らん事が度々有る。
 しかし、始終空想ばかりに耽《ふけ》ッているでも無い※[#白ゴマ点、213−9]多く考えるうちには少しは稍々《やや》行われそうな工夫を付ける、そのうちでまず上策というは、この頃の家内《かない》の動静《ようす》を詳く叔父の耳へ入れて父親の口から篤《とく》とお勢に云い聞かせる、という一策で有る。そうしたら、或はお勢も眼が覚めようかと思われる。が、また思い返せば、他人の身の上なればともかくも、我と入組んだ関繋の有るお勢の身の上をかれこれ心配してその親の叔父に告げると何《なに》となく後めだくてそうも出来ん。仮使《たとい》思い切ッてそうしたところで、叔父はお勢を諭《さと》し得ても、我儘《わがまま》なお政は説き伏せるをさて置き、却《かえ》ッて反対にいいくるめられるも知れん、と思えば、なるべくは叔父に告げずして事を収めたい。叔父に告げずして事を収めようと思えば、今一度お勢の袖《そで》を扣《ひか》えて打附《うちつ》け
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