うともせず、また匿くすまいともせず※[#白ゴマ点、209−6]胸に城郭を設けぬからとて、言って花の散るような事は云わず、また聞こうともせず、まだ妻でない妻、夫でない夫、親で無い親、――も、こう三人集ッたところに、誰が作り出すともなく、自らに清く、穏な、優しい調子を作り出して、それに随《つ》れて物を言い、事をしたから、人々があたかも平生の我よりは優《まさ》ったようで、お政のような婦人でさえ、尚お何処《どこ》か頼もし気な所が有ったのみならず、却ってこれが間に介《はさ》まらねば、余り両人《ふたり》の間が接近しすぎて穏さを欠くので、お政は文三等の幸福を成すに無《なく》て叶《かな》わぬ人物とさえ思われた。が、その温《あたたか》な愛念も、幸福な境界《きょうがい》も、優しい調子も、嬉《うれ》しそうに笑う眼元も口元も、文三が免職になッてから、取分けて昇が全く家内へ立入ったから、皆突然に色が褪《さ》め、気が抜けだして、遂《つい》に今日この頃のこの有様となった……
今の家内の有様を見れば、もはや以前のような和いだ所も無ければ、沈着《おちつ》いた所もなく、放心《なげやり》に見渡せば、総て華《はなや》かに、賑《にぎや》かで、心配もなく、気あつかいも無く、浮々《うかうか》として面白そうに見えるものの、熟々《つらつら》視れば、それは皆|衣物《きもの》で、※[#「身+果」、第4水準2−89−55]体《はだかみ》にすれば、見るも汚《けがら》わしい私欲、貪婪《どんらん》、淫褻《いんせつ》、不義、無情の塊《かたまり》で有る。以前人々の心を一致さした同情も無ければ、私心の垢《あか》を洗った愛念もなく、人々|己《おのれ》一個の私《わたくし》をのみ思ッて、己《おの》が自恣《じし》に物を言い、己が自恣に挙動《たちふるま》う※[#白ゴマ点、210−4]|欺《あざむ》いたり、欺かれたり、戯言《ぎげん》に託して人の意《こころ》を測ッてみたり、二つ意味の有る言《こと》を云ってみたり、疑ッてみたり、信じてみたり、――いろいろさまざまに不徳を尽す。
お政は、いうまでもなく、死灰《しかい》の再び燃えぬうちに、早く娘を昇に合せて多年の胸の塊を一時におろしてしまいたいが、娘が、思うように、如才なくたちまわらんので、それで歯癢《はがゆ》がって気を揉《も》み散らす。昇はそれを承知しているゆえ、後《のち》の面倒を慮《おも》って迂濶《うかつ》に手は出さんが、罠《わな》のと知りつつ、油鼠《あぶらねずみ》の側《そば》を去られん老狐《ふるぎつね》の如くに、遅疑しながらも、尚おお勢の身辺を廻って、横眼で睨《にら》んでは舌舐《したねぶ》りをする(文三は何故か昇の妻となる者は必ず愚《おろか》で醜い代り、権貴な人を親に持った、身柄《みがら》の善い婦人とのみ思いこんでいる)。お政は昇の意《こころ》を見抜いてい、昇もまたお政の意を見抜いている※[#白ゴマ点、210−12]しかも互に見抜れていると略《ほ》ぼ心附いている。それゆえに、故《ことさ》らに無心な顔を作り、思慮の無い言《こと》を云い、互に瞞着《まんちゃく》しようと力《つと》めあうものの、しかし、双方共力は牛角《ごかく》のしたたかものゆえ、優《まさり》もせず、劣《おとり》もせず、挑《いど》み疲れて今はすこし睨合《にらみあい》の姿となった。総てこれ等の動静《ようす》は文三も略《ほ》ぼ察している。それを察しているから、お勢がこのような危い境に身を処《お》きながら、それには少しも心附かず、私欲と淫欲とが爍《れき》して出来《でか》した、軽く、浮いた、汚《けがら》わしい家内の調子に乗せられて、何心なく物を言っては高笑《たかわらい》をする、その様子を見ると、手を束《つか》ねて安座していられなくなる。
お勢は今|甚《はなは》だしく迷っている、豕《いのこ》を抱《いだ》いて臭きを知らずとかで、境界《きょうがい》の臭みに居ても、おそらくは、その臭味がわかるまい。今の心の状《さま》を察するに、譬《たと》えば酒に酔ッた如くで、気は暴《あれ》ていても、心は妙に昧《くら》んでいるゆえ、見る程の物聞く程の事が眼や耳やへ入ッても底の認識までは届かず、皆中途で立消をしてしまうであろう※[#白ゴマ点、211−5]また徒《た》だ外界と縁遠くなったのみならず、我内界とも疎《うと》くなったようで、我心ながら我心の心地はせず、始終何か本体の得知れぬ、一種不思議な力に誘《いざな》われて言動|作息《さそく》するから、我《われ》にも我が判然とは分るまい、今のお勢の眼には宇宙は鮮《あざや》いで見え、万物は美しく見え、人は皆|我一人《われいちにん》を愛して我一人のために働いているように見えよう※[#白ゴマ点、211−9]|若《も》し顔を皺《しか》めて溜息《ためいき》を吐《つ》く者が有れば、この世はこれほど住
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