どうかこうか釣込まれて、叱る声を崩して笑ッてしまう。但し朝起される時だけはそれは例外で、その時ばかりは少し頬を脹《ふく》らせる※[#白ゴマ点、206−14]が、それもその程が過ぎれば、我から機嫌を直して、華やいで、時には母親に媚《こ》びるのかと思うほどの事をもいう。初の程はお政も不審顔をしていたが、慣れれば、それも常となッてか、後には何とも思わぬ様子で有ッた。
 そのうちにお勢が編物の夜稽古《よげいこ》に通いたいといいだす。編物よりか、心|易《やす》い者に日本の裁縫を教える者が有るから、昼間|其所《そこ》へ通えと、母親のいうを押反して、幾度《いくたび》か幾度か、掌《て》を合せぬばかりにして是非に編物をと頼む。西洋の処女なら、今にも母の首にしがみ付いて頬の辺《あたり》に接吻《せっぷん》しそうに、あまえた強請《ねだ》るような眼付で顔をのぞかれ、やいやいとせがまれて、母親は意久地なく、「ええ、うるさい! どうなと勝手におし」と賺《すか》されてしまッた。
 編物の稽古は、英語よりも、面白いとみえて、隔晩の稽古を楽しみにして通う。お勢は、全体、本化粧が嫌いで、これまで、外出《そとで》するにも、薄化粧ばかりしていたが、編物の稽古を初めてからは、「皆《みんな》が大層作ッて来るから、私一人なにしない……」と咎《とが》める者も無いに、我から分疏《いいわけ》をいいいい、こッてりと、人品《じんぴん》を落すほどに粧《つく》ッて、衣服も成《なり》たけ美《よ》いのを撰《えら》んで着て行く。夜だから、此方《こちら》ので宜いじゃないかと、美くない衣服を出されれば、それを厭とは拒みはしないが、何となく機嫌がわるい。
 お政はそわそわして出て行く娘の後姿を何時も請難《うけに》くそうに目送《みおく》る……
 昇は何時からともなく足を遠くしてしまッた。

     第十九回

 お勢は一旦《いったん》は文三を仂《はした》なく辱《はずかし》めはしたものの、心にはさほどにも思わんか、その後はただ冷淡なばかりで、さして辛《つら》くも当らん※[#白ゴマ点、207−16]が、それに引替えて、お政はますます文三を憎んで、始終出て行けがしに待遇《もてな》す。何か用事が有りて下座敷へ降りれば、家内中|寄集《よりこぞ》りて、口を解《ほど》いて面白そうに雑談《ぞうだん》などしている時でも、皆云い合したように、ふと口を箝《つぐ》んで顔を曇らせる、といううちにも取分けてお政は不機嫌《ふきげん》な体《てい》で、少し文三の出ようが遅ければ、何を愚頭々々《ぐずぐず》していると云わぬばかりに、此方《こちら》を睨《ね》めつけ、時には気を焦《いら》ッて、聞えよがしに舌鼓《したつづみ》など鳴らして聞かせる事も有る。文三とても、白痴でもなく、瘋癲《ふうてん》でもなければ、それほどにされんでも、今ここで身を退《ひ》けば眉《まゆ》を伸べて喜ぶ者がそこらに沢山あることに心附かんでも無いから、心苦しいことは口に云えぬほどで有る、けれど、尚《な》お園田の家を辞し去ろうとは思わん。何故《なにゆえ》にそれほどまでに園田の家を去りたくないのか、因循な心から、あれほどにされても、尚おそのような角立った事は出来んか、それほどになっても、まだお勢に心が残るか、抑《そもそ》もまた、文三の位置では陥り易《やす》い謬《あやまり》、お勢との関繋《かんけい》がこのままになってしまッたとは情談らしくてそうは思えんのか? 総《すべ》てこれ等の事は多少は文三の羞《はじ》を忍んで尚お園田の家に居る原因となったに相違ないが、しかし、重な原因ではない。重な原因というは即《すなわ》ち人情の二字、この二字に覊絆《しばら》れて文三は心ならずも尚お園田の家に顔を皺《しか》めながら留《とどま》ッている。
 心を留《とど》めて視《み》なくとも、今の家内の調子がむかしとは大《おおい》に相違するは文三にも解る。以前まだ文三がこの調子を成す一つの要素で有ッて、人々が眼を見合しては微笑し、幸福といわずして幸福を楽んでいたころは家内全体に生温《なまぬる》い春風が吹渡ッたように、総て穏《おだやか》に、和いで、沈着《おちつ》いて、見る事聞く事が尽《ことごと》く自然に適《かな》ッていたように思われた。そのころの幸福は現在の幸福ではなくて、未来の幸福の影を楽しむ幸福で、我も人も皆何か不足を感じながら、強《あなが》ちにそれを足そうともせず、却《かえ》って今は足らぬが当然と思っていたように、急《せ》かず、騒がず、優游《ゆうゆう》として時機の熟するを竢《ま》っていた、その心の長閑《のどか》さ、寛《ゆるやか》さ、今|憶《おも》い出しても、閉じた眉が開くばかりな……そのころは人々の心が期せずして自《おのずか》ら一致し、同じ事を念《おも》い、同じ事を楽んで、強《あなが》ちそれを匿《か》くそ
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