動もしない。何を思ッているのか? 母の端《はし》なく云ッた一言《ひとこと》の答を求めて求め得んのか? 夢のように、過ぎこした昔へ心を引戻して、これまで文三如き者に拘《かかずら》ッて、良縁をも求めず、徒《いたずら》に歳月《としつき》を送ッたを惜しい事に思ッているのか? 或は母の言葉の放ッた光りに我身を※[#「螢」の「虫」に代えて「糸」、第3水準1−90−16]《めぐ》る暗黒《やみ》を破られ、始めて今が浮沈の潮界《しおざかい》、一生の運の定まる時と心附いたのか? 抑《そもそも》また狂い出す妄想《ぼうそう》につれられて、我知らず心を華やかな、娯《たの》しい未来へ走らし、望みを事実にし、現《うつつ》に夢を見て、嬉しく、畏《おそ》ろしい思をしているのか? 恍惚《うっとり》とした顔に映る内の想《おもい》が無いから、何を思ッていることかすこしも解らないが、とにかく良《やや》久《しば》らくの間は身動をもしなかッた、そのままで十分ばかり経ったころ、忽然《こつぜん》として眼が嬉しそうに光り出すかと思う間に、見る見る耐《こら》えようにも耐え切れなさそうな微笑が口頭《くちもと》に浮び出て、頬《ほお》さえいつしか紅《べに》を潮《さ》す。閉じた胸の一時に開けた為め、天成の美も一段の光を添えて、艶《えん》なうちにも、何処か豁然《からり》と晴やかに快さそうな所も有りて、宛然《さながら》蓮《はす》の花の開くを観るように、見る眼も覚めるばかりで有ッた。突然お勢は跳ね起きて、嬉しさがこみあげて、徒《ただ》は坐ッていられぬように、そして柱に懸けた薄暗い姿見に対《むか》い、糢糊《ぼんやり》写る己《おの》が笑顔を覗《のぞ》き込んで、あやすような真似をして、片足浮かせて床の上でぐるりと回り、舞踏でもするような運歩《あしどり》で部屋の中《うち》を跳ね廻ッて、また床の上へ来るとそのまま、其処《そこ》へ臥倒《ねたお》れる拍子に手ばしこく、枕《まくら》を取ッて頭《かしら》に宛《あて》がい、渾身《みうち》を揺りながら、締殺ろしたような声を漏らして笑い出して。
 この狂気《きちがい》じみた事の有ッた当坐は、昇が来ると、お勢は臆《おく》するでもなく耻《はじ》らうでもなく只何となく落着が悪いようで有ッた。何か心に持ッているそれを悟られまいため、やはり今までどおり、おさなく、愛度気《あどけ》なく待遇《あしらお》うと、影では思うが、いざ昇と顔を合せると、どうももうそうはいかないと云いそうな調子で。いう事にさしたる変りも無いが、それをいう調子に何処か今までに無いところが有ッて、濁ッて、厭味を含む。用も無いに坐舗を出たり、はいッたり、おかしくも無いことに高く笑ッたり、誰やらに顔を見られているなと心附きながら、それを故意《わざ》と心附かぬ風《ふり》をして、磊落《らいらく》に母親に物をいッたりするはまだな事、昇と眼を見合わして、狼狽《うろたえ》て横へ外らしたことさえ度々《たびたび》有ッた。総《すべ》て今までとは様子が違う、それを昇の居る前で母親に怪しまれた時はお勢もぱッと顔を※[#「赤+報のつくり」、205−14]《あか》めて、如何《いか》にも極《きま》りが悪そうに見えた。が、その極り悪そうなもいつしか失《う》せて、その後は、昇に飽いたのか、珍らしくなくなったのか、それとも何か争《いさか》いでもしたのか、どうしたのか解らないが、とにかく昇が来ないとても、もウ心配もせず、来たとて、一向構わなくなッた。以前は鬱々としている時でも、昇が来れば、すぐ冴《さ》えたものを、今は、その反対で、冴えている時でも、昇の顔を見れば、すぐ顔を曇らして、冷淡になって、余り口数もきかず、総て仲のわるい従兄妹《いとこ》同士のように、遠慮気なく余所々々《よそよそ》しく待遇《もてな》す。昇はさして変らず、尚お折節には戯言《ざれごと》など云い掛けてみるが、云ッても、もウお勢が相手にならず、勿論嬉しそうにも無く、ただ「知りませんよ」と彼方《あちら》向くばかり。それ故《ゆえ》に、昇の戯《ざれ》ばみも鋒尖《ほこさき》が鈍ッて、大抵は、泣眠入《なきねい》るように、眠入ッてしまう。こうまで昇を冷遇する。その代り、昇の来ていない時は、おそろしい冴えようで、誰彼の見さかいなく戯《たわぶ》れかかッて、詩吟するやら、唱歌するやら、いやがる下女をとらえて舞踏の真似をするやら、飛だり、跳ねたり、高笑をしたり、さまざまに騒ぎ散らす。が、こう冴えている時でも、昇の顔さえ見れば、不意にまた眼の中《うち》を曇らして、落着いて、冷淡になッて、しまう。
 けれど、母親には大層やさしくなッて、騒いで叱られたとて、鎮《しず》まりもしないが、悪《にく》まれ口もきかず、却《かえ》ッて憎気なく母親にまでだれかかるので、母親も初のうちは苦い顔を作ッていたものの、竟《つい》には、
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