聞こえる……「なに、十円さ」と突然|鼓膜《こまく》を破る昇の声に駭《おどろ》かされ、震え上る拍子《ひょうし》に眼を看開《みひら》いて、忙わしく両人《ふたり》の顔を窺《うかが》えば、心附かぬ様子、まずよかッたと安心し、何喰わぬ顔をしてまた両人の話を聞出すと、また眼の皮がたるみ、引入れられるような、快《よ》い心地になッて、睡《ねむ》るともなく、つい正体を失う……誰かに手暴《てあら》く揺ぶられてまた愕然《がくぜん》として眼を覚ませば、耳元にどっと高笑《たかわらい》の声。お勢もさすがに莞爾《にッこり》して、「それでも睡いんだものを」と睡そうに分疏《いいわけ》をいう。またこういう事も有る※[#白ゴマ点、199−16]前のように慾張ッた談話《はなし》で両人は夢中になッている※[#白ゴマ点、199−17]お勢は退屈やら、手持|無沙汰《ぶさた》やら、いびつに坐りてみたり、危坐《かしこま》ッてみたり。耳を借していては際限もなし、そのうちにはまた睡気《ねむけ》がさしそうになる、から、ちと談話《はなし》の仲間入りをしてみようとは思うが、一人が口を箝《つぐ》めば、一人が舌を揮《ふる》い、喋々として両《ふた》つの口が結ばるという事が無ければ、嘴《くちば》しを容《い》れたいにも、更にその間隙《すきま》が見附からない。その見附からない間隙を漸やく見附けて、此処《ここ》ぞと思えば、さて肝心のいうことが見附からず迷《まご》つくうちにはや人に取られてしまう。経験が知識を生んで、今度《このたび》はいうべき事も予《かね》て用意して、じれッたそうに挿頭《かんざし》で髪を掻《か》きながら、漸くの思《おもい》で間隙《すき》を見附け、「公債は今|幾何《いくら》なの?」と嘴《くちばし》を挿《は》さんでみれば、さて我ながら唐突千万! 無理では無いが、昇も、母親も、胆《きも》を潰《つぶ》して顔を視合《みあ》わせて、大笑に笑い出す。――今のは半襟《はんえり》の間違いだろう。――なに、人形の首だッさ。――違《ちげ》えねえ。またしても口を揃《そろ》えて高笑い。――あんまりだから、いい! とお勢は膨れる。けれど、膨れたとて、機嫌《きげん》を取られれば、それだけ畢竟《つまり》安目にされる道理。どうしても、こうしても、敵《かな》わない。
 お勢はこの事を不平に思ッて、或は口を聞かぬと云い、或は絶交すると云ッて、恐喝《おど》してみたが、昇は一向平気なもの、なかなかそんな甘手ではいかん。圧制家《デスポト》、利己論者《イゴイスト》と口では呪《のろ》いながら、お勢もついその不届者と親しんで、玩《もてあそ》ばれると知りつつ、玩ばれ、調戯《なぶ》られると知りつつ、調戯《なぶ》られている。けれど、そうはいうものの、戯《ふざ》けるも満更でも無いと見えて、偶々《たまたま》昇が、お勢の望む通り、真面目にしていれば、さてどうも物足りぬ様子で、此方《こちら》から、遠方から、危うがりながら、ちょッかいを出してみる。相手にならねば、甚《はなはだ》機嫌がわるい※[#白ゴマ点、200−17]から、余義なくその手を押さえそうにすれば、忽《たちま》ちきゃッきゃッと軽忽《きょうこつ》な声を発し、高く笑い、遠方へ迯《に》げ、例の睚《まぶち》の裏を返して、ベベベーという。総《すべ》てなぶられても厭《いや》だが、なぶられぬも厭、どうしましょう、といいたそうな様子。
 母親は見ぬ風《ふり》をして見落しなく見ておくから、歯癢《はが》ゆくてたまらん。老功の者の眼から観れば、年若の者のする事は、総てしだらなく、手緩《てぬ》るくて更に埒《らち》が明かん。そこで耐《こら》え兼て、娘に向い、厳《おごそ》かに云い聞かせる、娘の時の心掛を。どのような事かと云えば、皆多年の実験から出た交際の規則で、男、取分けて若い男という者はこうこういう性質のもので有るから、若《も》し情談をいいかけられたら、こう、花を持たせられたら、こう、弄《なぶ》られたら、こう待遇《あしら》うものだ、など、いう事であるが、親の心子知らずで、こう利益《ため》を思ッて、云い聞かせるものを、それをお勢は、生意気な、まだ世の態《さま》も見知らぬ癖に、明治生れの婦人は芸娼妓《げいしょうぎ》で無いから、男子に接するにそんな手管《てくだ》はいらないとて、鼻の頭《さき》で待遇《あしら》ッていて、更に用いようともしない。手管では無い、これが娘の時の心掛というものだと云い聞かせても、その様な深遠な道理はまだ青いお勢には解らない。そんな事は女大学にだッて書いて無いと強情を張る。勝手にしなと肝癪《かんしゃく》を起こせば、勝手にしなくッてと口答《くちごたえ》をする。どうにも、こうにも、なッた奴じゃない!
 けれど、母親が気を揉《も》むまでも無く、幾程《いくほど》もなくお勢は我から自然に様子を変えた。まずその初
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