何が何だか、訳が解りゃアしません」
 少ししらけた席の穴を填《うめ》るためか、昇が俄《にわ》かに問われもせぬ無沙汰《ぶさた》の分疏《いいわけ》をしだして、近ごろは頼まれて、一|夜《よ》はざめに課長の所へ往《いっ》て、細君と妹に英語の下稽古をしてやる、という。「いや、迷惑な」と言葉を足す。
 と聞いて、お政にも似合わぬ、正直な、まうけに受けて、その不心得を諭《さと》す、これが立身の踏台になるかも知れぬと云ッて。けれども、御弟子が御弟子ゆえ、飛だ事まで教えはすまいかと思うと心配だと高く笑う。
 お勢は昇が課長の所へ英語を教えに往くと聞くより、どうしたものか、俄かに萎《しお》れだしたが、この時母親に釣《つ》られて淋《さび》しい顔で莞爾《にっこり》して、「令妹の名は何というの?」
「花とか耳とか云ッたッけ」
「余程出来るの?」
「英語かね? なアに、から駄目だ。Thank《サンク》 you《ユー》 for《フォア》 your《ユアー》 kind《カインド》 だから、まだまだ」
 お勢は冷笑の気味で、「それじゃアア……」
 I《アイ》 will《ウィル》 ask《アスク》 to《ツー》 you《ユー》 と云ッて今日教師に叱《しか》られた、それはこの時忘れていたのだから、仕方が無い。
「ときに、これは」と昇はお政の方を向いて親指を出してみせて、「どうしました、その後?」
「居ますよまだ」とお政は思い切りて顔を皺《しか》めた。
「ずうずうしいと思ッてねえ!」
「それも宜《いい》が、また何かお勢に云いましたッさ」
「お勢さんに?」
「はア」
「どんな事を?」
 おッとまかせと饒舌《しゃべ》り出した、文三のお勢の部屋へ忍び込むから段々と順を逐《お》ッて、剰《あま》さず漏さず、おまけまでつけて。昇は顋《あご》を撫《な》でてそれを聴いていたが、お勢が悪たれた一段となると、不意に声を放ッて、大笑に笑ッて、「そいつア痛かッたろう」
「なにそン時こそ些《ちっと》ばかし可怪《おかし》な顔をしたッけが、半日も経《た》てば、また平気なものさ。なンと、本田さん、ずうずうしいじゃア有りませんか!」
「そうしてね、まだ私の事を浮気者だなンぞッて」
「ほんとにそんな事も云たそうですがね、なにも、そんなに腹がたつなら、此所《ここ》の家に居ないが宜じゃ有りませんか。私ならすぐ下宿か何かしてしまいまさア。それを、そんな事を云ッて置きながら、ずうずうしく、のべんくらりと、大飯を食らッて……ているとは何所《どこ》まで押《おし》が重《おもた》いンだか数《すう》が知れないと思ッて」
 昇は苦笑いをしていた。暫時《しばらく》して返答とはなく、ただ、「何しても困ッたもンだね」
「ほんとに困ッちまいますよ」
 困ッている所へ勝手口で、「梅本でござい」。梅本というは近処の料理屋。「おや家《うち》では……」とお政は怪しむ、その顔も忽《たちま》ち莞爾々々《にこにこ》となッた、昇の吩咐《いいつけ》とわかッて。
「それだからこの息子は可愛《かわい》いよ」。片腹痛い言《こと》まで云ッてやがて下女が持込む岡持の蓋《ふた》を取ッて見るよりまた意地の汚い言《こと》をいう。それを、今夜に限《かぎっ》て、平気で聞いているお勢どのの心持が解らない、と怪しんでいる間も有ればこそ、それッと炭を継《つ》ぐ、吹く、起こす、燗《かん》をつけるやら、鍋《なべ》を懸けるやら、瞬《またた》く間に酒となッた。
 あいのおさえのという蒼蠅《うるさ》い事の無《ない》代《かわ》り、洒落《しゃれ》、担《かつ》ぎ合い、大口、高笑、都々逸《どどいつ》の素《す》じぶくり、替歌の伝受|等《など》、いろいろの事が有ッたが、蒼蠅《うるさ》いからそれは略す。
 刺身は調味《つま》のみになッて噎《おくび》で応答《うけこたえ》をするころになッて、お政は、例の所へでも往きたくなッたか、ふと起《た》ッて坐舗《ざしき》を出た。
 と両人《ふたり》差向いになッた。顔を視合わせるとも無く視合わして、お勢はくすくすと吹出したが、急に真面目になッてちんと澄ます。
「これアおかしい。何がくすくすだろう?」
「何でも無いの」
「のぼる源氏のお顔を拝んで嬉しいか?」
「呆《あき》れてしまわア、ひょッとこ面《づら》の癖に」
「何だと?」
「綺麗《きれい》なお顔で御座いますということ」
 昇は例の黙ッてお勢を睨《ね》め出す。
「綺麗なお顔だというンだから、ほほほ」と用心しながら退却《あとすざり》をして、「いいじゃア……おッ……」
 ツと寄ッた昇がお勢の傍《そば》へ……空《くう》で手と手が閃《ひらめ》く、からまる……と鎮《しず》まッた所をみれば、お勢は何時《いつ》か手を握られていた。
「これがどうしたの?」と平気な顔。
「どうもしないが、こうまず俘虜《いけどり》にしておいてどッこ
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