旧《ききふる》した諺《ことわざ》も今は耳新しく身に染《し》みて聞かれる。から、何事につけても、己《おのれ》一人《いちにん》をのみ責めて敢《あえ》て叨《みだ》りにお勢を尤《とが》めなかッた。が、如何に贔負眼《ひいきめ》にみても、文三の既に得た所謂《いわゆる》識認というものをお勢が得ているとはどうしても見えない。軽躁《けいそう》と心附かねばこそ、身を軽躁に持崩しながら、それを憂《う》しとも思わぬ様子※[#白ゴマ点、190−1]|醜穢《しゅうかい》と認めねばこそ、身を不潔な境に処《お》きながら、それを何とも思わぬ顔色《かおつき》。これが文三の近来最も傷心な事、半夜夢覚めて燈《ともしび》冷《ひやや》かなる時、想《おも》うてこの事に到れば、毎《つね》に悵然《ちょうぜん》として太息《たいそく》せられる。
して見ると、文三は、ああ、まだ苦しみが甞《な》め足りぬそうな!
第十七回
お勢のあくたれた時、お政は娘の部屋で、凡《およ》そ二時間ばかりも、何か諄々《くどくど》と教誨《いいきか》せていたが、爾後《それから》は、どうしたものか、急に母子《おやこ》の折合が好《よく》なッて来た。取分けてお勢が母親に孝順《やさしく》する、折節には機嫌《きげん》を取るのかと思われるほどの事をも云う。親も子も睨《ね》める敵《かたき》は同じ文三ゆえ、こう比周《したしみあ》うもその筈《はず》ながら、動静《ようす》を窺《み》るに、只《ただ》そればかりでも無さそうで。
昇はその後ふッつり遊びに来ない。顔を視《み》れば鬩《いが》み合う事にしていた母子ゆえ、折合が付いてみれば、咄《はなし》も無く、文三の影口も今は道尽《いいつく》す、――家内が何時《いつ》からと無く湿ッて来た。
「ああ辛気《しんき》だこと!」と一夜《あるよ》お勢が欠《あく》びまじりに云ッて泪《なみだ》ぐンだ。
新聞を拾読《ひろいよみ》していたお政は眼鏡越しに娘を見遣《みや》ッて、「欠びをして徒然《つくねん》としていることは無《ない》やアね。本でも出して来てお復習《さらい》なさい」
「復習《さらえ》ッて」とお勢は鼻声になッて眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。
「明日《あした》の支度《したく》はもう済してしまッたものを」
「済ましッちまッたッて」
お政は復《また》新聞に取掛ッた。
「慈母《おっか》さん」とお勢は何をか憶出して事有り気に云ッた。「本田さんは何故《なぜ》来ないンだろう?」
「何故だか」
「憤《おこ》ッているのじゃないのだろうか?」
「そうかも知れない」
何を云ッても取合わぬゆえ、お勢も仕方なく口を箝《つぐ》んで、少《しばら》く物思わし気に洋燈《ランプ》を凝視《みつめ》ていたが、それでもまだ気に懸ると見えて、「慈母さん」
「何だよ?」と蒼蠅《うるさ》そうにお政は起直ッた。
「真個《ほんとう》に本田さんは憤ッて来ないのだろうか?」
「何を?」
「何をッて」と少し気を得て、「そら、この間来た時、私が構わなかったから……」
と母の顔を凝視た。
「なに人《ひと》」とお政は莞爾《にっこり》した、何と云ッてもまだおぼだなと云いたそうで。「お前に構ッて貰《もら》いたいンで来なさるンじゃ有るまいシ」
「あら、そうじゃ無いンだけれどもさ……」
と愧《はず》かしそうに自分も莞爾《にっこり》。
おほんという罪を作ッているとは知らぬから、昇が、例の通り、平気な顔をしてふいと遣ッて来た。
「おや、ま、噂《うわさ》をすれば影とやらだよ」とお政が顔を見るより饒舌《しゃべ》り付けた。「今|貴君《あなた》の噂をしていた所《とこ》さ。え? 勿論《もちろん》さ、義理にも善くは云えないッさ……ははははは。それは情談だが、きついお見限りですね。何処《どこ》か穴でも出来たンじゃないかね? 出来たとえ? そらそら、それだもの、だから鰻男《うなぎおとこ》だということさ。ええ鰌《どじょう》で無くッてお仕合せ? 鰌とはえ? ……あ、ほンに鰌と云えば、向う横町に出来た鰻屋ね、ちょいと異《おつ》ですッさ。久し振りだッて、奢《おご》らなくッてもいいよ。はははは」
皺延《しわの》ばしの太平楽、聞くに堪えぬというは平日の事、今宵《こよい》はちと情実《わけ》が有るから、お勢は顔を皺《しか》めるはさて置き、昇の顔を横眼でみながら、追蒐《おっか》け引蒐《ひっか》けて高笑い。てれ隠《かく》しか、嬉《うれ》しさの溢《こぼ》れか当人に聞いてみねば、とんと分からず。
「今夜は大分御機嫌だが」と昇も心附いたか、お勢を調戯《なぶり》だす。「この間はどうしたもンだッた? 何を云ッても、『まだ明日《あした》の支度をしませんから』はッ、はッ、はッ、憶出すと可笑《おか》しくなる」
「だッて、気分が悪かッたンですものを」と淫哇《いやら》しい、形容も出来ない身振り。
「
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