まい、いとど無口が一層口を開《き》かなくなッて、呼んでも捗々《はかばか》しく返答をもしない。用事が無ければ下へも降りて来ず、只《ただ》一|間《ま》にのみ垂れ籠《こ》めている。余り静かなので、つい居ることを忘れて、お鍋が洋燈《ランプ》の油を注がずに置いても、それを吩咐《いいつ》けて注がせるでもなく、油が無ければ無いで、真闇《まっくら》な坐舗《ざしき》に悄然《しょんぼり》として、始終何事をか考えている。
 けれど、こう静まッているは表相《うわべ》のみで、乞の胸臆《きょうおく》の中《うち》へ立入ッてみれば、実に一方《ひとかた》ならぬ変動。あたかも心が顛動《てんどう》した如くに、昨日《きのう》好いと思ッた事も今日は悪く、今日悪いと思う事も昨日は好いとのみ思ッていた。情慾の曇が取れて心の鏡が明かになり、睡入《ねい》ッていた智慧《ちえ》は俄《にわか》に眼を覚まして決然として断案を下し出す。眼に見えぬ処《ところ》、幽妙の処で、文三は――全くとは云わず――稍々《やや》変生《うまれかわ》ッた。
 眼を改めてみれば、今まで為《し》て来た事は夢か将《は》た現《うつつ》か……と怪しまれる。
 お政の浮薄、今更いうまでも無い。が、過《あや》まッた文三は、――実に今まではお勢を見謬《みあや》まッていた。今となッて考えてみれば、お勢はさほど高潔でも無《ない》。移気、開豁《はで》、軽躁《かるはずみ》、それを高潔と取違えて、意味も無い外部の美、それを内部のと混同して、愧《はず》かしいかな、文三はお勢に心を奪われていた。
 我に心を動かしていると思ッたがあれが抑《そもそ》も誤まりの緒《いとぐち》。苟《かりそ》めにも人を愛するというからには、必ず先《ま》ず互いに天性気質を知りあわねばならぬ。けれども、お勢は初《はじめ》より文三の人と為《な》りを知ッていねば、よし多少文三に心を動かした如き形迹《けいせき》が有《あれ》ばとて、それは真に心を動かしていたではなく、只ほんの一時|感染《かぶ》れていたので有ッたろう。
 感受の力の勝つ者は誰しも同じ事ながら、お勢は眼前に移り行く事や物やのうち少しでも新奇な物が有れば、眼早くそれを視て取ッて、直ちに心に思い染《し》める。けれども、惜しいかな、殆《ほとん》ど見たままで、別に烹煉《ほうれん》を加うるということをせずに、無造作にその物その事の見解を作ッてしまうから、自《おのずか》ら真相を看破《あきら》めるというには至らずして、動《やや》もすれば浅膚《せんぷ》の見《けん》に陥いる。それゆえ、その物に感染《かぶ》れて、眼色《めいろ》を変えて、狂い騒ぐ時を見れば、如何《いか》にも熱心そうに見えるものの、固《もと》より一時の浮想ゆえ、まだ真味を味《あじわ》わぬうちに、早くも熱が冷めて、厭気になッて惜し気もなく打棄ててしまう。感染《かぶ》れる事の早い代りに、飽きる事も早く、得る事に熱心な代りに、既に得た物を失うことには無頓着《むとんじゃく》。書物を買うにしても、そうで、買いたいとなると、矢も楯《たて》もなく買いたがるが、買ッてしまえば、余り読みもしない。英語の稽古《けいこ》を初めた時も、またその通りで、初めるまでは一|日《じつ》をも争ッたが、初めてみれば、さほどに勉強もしない。万事そうした気風で有てみれば、お勢の文三に感染《かぶ》れたも、また厭《あ》いたも、その間にからまる事情を棄てて、単にその心状をのみ繹《たず》ねてみたら、恐らくはその様な事で有ろう。
 かつお勢は開豁《はで》な気質、文三は朴茂《じみ》な気質。開豁が朴茂に感染れたから、何処《どこ》か仮衣《かりぎ》をしたように、恰当《そぐ》わぬ所が有ッて、落着《おちつき》が悪かッたろう。悪ければ良くしようというが人の常情で有ッてみれば、仮令《たと》え免職、窮愁、耻辱《ちじょく》などという外部の激因が無いにしても、お勢の文三に対する感情は早晩一変せずにはいなかッたろう。
 お勢は実に軽躁《かるはずみ》で有る。けれども、軽躁で無い者が軽躁な事を為《し》ようとて為得ぬが如く、軽躁な者は軽躁な事を為まいと思ッたとて、なかなか為《し》ずにはおられまい。軽躁と自《みずか》ら認めている者すら、尚おこうしたもので有ッてみれば、況《ま》してお勢の如き、まだ我をも知らぬ、罪の無い処女が己《おのれ》の気質に克《か》ち得ぬとて、強《あなが》ちにそれを無理とも云えぬ。若《も》しお勢を深く尤《とが》む可《べ》き者なら、較《くら》べて云えば、稍々《やや》学問あり智識ありながら、尚お軽躁《けいそう》を免がれぬ、譬《たと》えば、文三の如き者は(はれやれ、文三の如き者は?)何としたもので有ろう?
 人事《ひとごと》で無い。お勢も悪るかッたが、文三もよろしく無かッた。「人の頭の蠅《はえ》を逐《お》うよりは先ず我頭のを逐え」――聞
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