なし。昼飯《ひるはん》の時、顔を合わしたが、お勢は成りたけ文三の顔を見ぬようにしている。偶々《たまたま》眼を視合わせれば、すぐ首を据《す》えて可笑《おか》しく澄ます。それが睨付《にらみつけ》られるより文三には辛《つら》い。雨は歇《や》まず、お勢は済まぬ顔、家内も湿り切ッて誰とて口を聞く者も無し。文三果は泣出したくなッた。
心苦しいその日も暮れてやや雨はあがる。昇が遊びに来たか、門口で華やかな声。お鍋のけたたましく笑う声が聞える。お勢はその時奥坐舗に居たが、それを聞くと、狼狽《うろた》えて起上ろうとしたが間に合わず、――気軽《きがろ》に入ッて来る昇に視られて、さも余義なさそうに又坐ッた。
何も知らぬから、昇、例の如く、好もしそうな眼付をしてお勢の顔を視て、挨拶《あいさつ》よりまず戯言《ざれごと》をいう、お勢は莞爾《にっこり》ともせず、真面目な挨拶をする、――かれこれ齟齬《くいちが》う。から、昇も怪訝《けげん》な顔色《かおつき》をして何か云おうとしたが、突然お政が、三日も物を云わずにいたように、たてつけて饒舌《しゃべ》り懸けたので、つい紛《はぐ》らされてその方を向く。その間《ま》にお勢はこッそり起上ッて坐舗を滑り出ようとして……見附けられた。
「何処《どこ》へ、勢ちゃん?」
けれども、聞えませんから返答を致しませんと云わぬばかりで、お勢は坐舗を出てしまッた。
部屋は真の闇《やみ》。手探りで摺附木《マッチ》だけは探り当てたが、洋燈《ランプ》が見附らない。大方お鍋が忘れてまだ持ッて来ないので有ろう。「鍋や」と呼んで少し待ッてみて又「鍋や……」、返答をしない。「鍋、鍋、鍋」たてつけて呼んでも返答をしない。焦燥《じれ》きッていると、気の抜けたころに、間の抜けた声で、
「お呼びなさいましたか?」
「知らないよ……そんな……呼んでも呼んでも、返答もしないンだものを」
「だッてお奥で御用をしていたンですものを」
「用をしていると返答は出来なくッて?」
「御免遊ばせ……何か御用?」
「用が無くッて呼びはしないよ……そンな……人を……くらみ(暗黒)でるのがわかッ(分ら)なッかえッ?」
二三度聞直して漸く分ッて洋燈《ランプ》は持ッて来たが、心無し奴《め》が跡をも閉めずして出て往ッた。
「ばか」
顔に似合わぬ悪体を吐《つ》きながら、起上《たちあが》ッて邪慳《じゃけん》に障子を〆《しめ》切り、再び机の辺《ほとり》に坐る間もなく、折角〆た障子をまた開けて……己《おの》れ、やれ、もう堪忍《かんにん》が……と振り反ッてみれば、案外な母親。お勢は急に他所《よそ》を向く。
「お勢」と小声ながらに力瘤《ちからこぶ》を込めて、お政は呼ぶ。此方《こちら》はなに返答をするものかと力身《りきん》だ面相《かおつき》。
「何だと云ッて、あんなおかしな処置振りをお為《し》だ? 本田さんが何とか思いなさらアね。彼方《あっち》へお出でよ」
と暫《しば》らく待ッていてみたが、動きそうにも無いので、又声を励まして、
「よ、お出でと云ッたら、お出でよ」
「その位ならあんな事云わないがいい……」
と差俯向《さしうつむ》く、その顔を窺《のぞ》けば、おやおや泪《なみだ》ぐんで……
「ま呆《あき》れけえッちまわア!」と母親はあきれけエッちまッた。「たンとお脹《ふく》れ」
とは云ッたが、又折れて、
「世話ア焼かせずと、お出でよ」
返答なし。
「ええ、も、じれッたい! 勝手にするがいい!」
そのまま母親は奥坐舗へ還《かえ》ってしまった。
これで坐舗へ還る綱も截《き》れた。求めて截ッて置きながら今更惜しいような、じれッたいような、おかしな顔をして暫く待ッていてみても、誰も呼びに来てもくれない。また呼びに来たとて、おめおめ還られもしない。それに奥坐舗では想像《おもいやり》のない者共が打揃《うちそろ》ッて、噺《はな》すやら、笑うやら……肝癪《かんしゃく》紛れにお勢は色鉛筆を執ッて、まだ真新しなすういんとん[#「すういんとん」に傍線]の文典の表紙をごしごし擦《こす》り初めた。不運なはすういんとん[#「すういんとん」に傍線]の文典!
表紙が大方真青になッたころ、ふと縁側に足音……耳を聳《そばだ》てて、お勢ははッと狼狽《うろた》えた……手ばしこく文典を開けて、倒《さか》しまになッているとも心附かで、ぴッたり眼で喰込んだ、とんと先刻から書見していたような面相《かおつき》をして。
すらりと障子が開《あ》く。文典を凝視《みつ》めたままで、お勢は少し震えた。遠慮気もなく無造作に入ッて来た者は云わでと知れた昇。華美《はで》な、軽い調子で、「遁《に》げたね、好男子《いろおとこ》が来たと思ッて」
と云わして置いて、お勢は漸く重そうに首を矯《あ》げて、世にも落着いた声で、さもにべなく、
「あの失礼で
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