漸《ようや》く三時半すこし廻わッたばかり。今から帰るも何となく気が進まぬ。から、彼所《あれ》から牛込見附《うしごめみつけ》へ懸ッて、腹の屈托《くったく》を口へ出して、折々往来の人を驚かしながら、いつ来るともなく番町へ来て、例の教師の家を訪問《おとずれ》てみた。
 折善くもう学校から帰ッていたので、すぐ面会した。が、授業の模様、旧生徒の噂《うわさ》、留学、竜動《ロンドン》、「たいむす」、はッばァと、すぺんさあー[#「はッばァと、すぺんさあー」に傍線]――相変らぬ噺《はなし》で、おもしろくも何ともない。「私……事に寄ると……この頃に下宿するかも知れません」、唐突に宛《あて》もない事を云ッてみたが、先生少しも驚かず、何故《なにゆえ》かふむと鼻を鳴らして、只「羨《うらや》ましいな。もう一度そんな身になってみたい」とばかり。とんと方角が違う。面白くないから、また辞して教師の宅をも出てしまッた。
 出た時の勢《いきおい》に引替えて、すごすご帰宅したは八時ごろの事で有ッたろう。まず眼を配ッてお勢を探す。見えない、お勢が……棄てた者に用も何もないが、それでも、文三に云わせると、人情というものは妙なもので、何となく気に懸るから、火を持ッて上ッて来たお鍋にこッそり聞いてみると、お嬢さまは気分が悪いと仰《おっ》しゃッて、御膳《ごぜん》も碌《ろく》に召上らずに、モウお休みなさいました、という。
「御膳も碌に?……」
「御膳も碌に召しやがらずに」
 確められて文三急に萎《しお》れかけた……が、ふと気をかえて、「ヘ、ヘ、ヘ、御膳も召上らずに……今に鍋焼饂飩《なべやきうどん》でも喰《くい》たくなるだろう」
 おかしな事をいうとは思ッたが、使に出ていて今朝の騒動を知らないから、お鍋はそのまま降りてしまう。
 と、独りになる。「ヘ、ヘ、ヘ」とまた思出して冷笑《あざわら》ッた……が、ふと心附いてみれば、今はそんな、つまらぬ、くだらぬ、薬袋《やくたい》も無い事に拘《かかわ》ッている時ではない。「叔父の手前何と云ッて出たものだろう?」と改めて首を捻《ひね》ッて見たが、もウ何となく馬鹿気ていて、真面目《まじめ》になって考えられない。「何と云ッて出たものだろう?」と強《し》いて考えてみても、心|奴《め》がいう事を聴かず、それとは全く関繋《かんけい》もない余所事《よそごと》を何時《いつ》からともなく思ッてしまう。いろいろに紛れようとしてみても、どうも紛れられない、意地悪くもその余所事が気に懸ッて、気に懸ッて、どうもならない。怺《こら》えに、怺えに、怺えて見たが、とうどう怺え切れなくなッて、「して見ると、同じように苦しんでいるかしらん」、はッと云ッても追付かず、こう思うと、急におそろしく気の毒になッて来て、文三は狼狽《あわ》てて後悔をしてしまッた。
 叱《しか》るよりは謝罪《あやま》る方が文三には似合うと誰やらが云ッたが、そうかも知れない。

     第十四回

「気の毒気の毒」と思い寐《ね》にうとうととして眼を覚まして見れば、烏《からす》の啼声《なきごえ》、雨戸を繰る音、裏の井戸で釣瓶《つるべ》を軋《きし》らせる響《ひびき》。少し眠足《ねた》りないが、無理に起きて下坐舗へ降りてみれば、只お鍋が睡むそうな顔をして釜《かま》の下を焚付《たきつ》けているばかり。誰も起きていない。
 朝寐が持前のお勢、まだ臥《ね》ているは当然の事、とは思いながらも、何となく物足らぬ心地がする。
 早く顔が視《み》たい、如何様《どん》な顔をしているか。顔を視れば、どうせ好い心地がしないは知れていれど、それでいて只早く顔が視たい。
 三十分たち、一時間たつ。今に起きて来るか、と思えば、肉癢《こそば》ゆい。髪の寐乱れた、顔の蒼《あお》ざめた、腫瞼《はれまぶち》の美人が始終|眼前《めさき》にちらつく。
「昨日《きのう》下宿しようと騒いだは誰で有ッたろう」と云ッたような顔色《かおつき》……
 朝飯《あさはん》がすむ。文三は奥坐舗を出ようとする、お勢はその頃になッて漸々《ようよう》起きて来て、入ろうとする、――縁側でぴッたり出会ッた……はッと狼狽《うろた》えた文三は、予《かね》て期《ご》した事ながら、それに引替えて、お勢の澄ましようは、じろりと文三を尻眼《しりめ》に懸けたまま、奥坐舗へツイとも云わず入ッてしまッた。只それだけの事で有ッた。
 が、それだけで十分。そのじろりと視た眼付が眼の底に染付《しみつ》いて忘れようとしても忘れられない。胸は痞《つか》えた。気は結ぼれる。搗《か》てて加えて、朝の薄曇りが昼少し下《さが》る頃より雨となッて、びしょびしょと降り出したので、気も消えるばかり。
 お勢は気分の悪いを口実《いいだて》にして英語の稽古《けいこ》にも往かず、只一間に籠《こも》ッたぎり、音沙汰《おとさた》
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